ウジェニー・ド・モンティジョ (フランス語 : Eugénie de Montijo , 1826年 5月5日 - 1920年 7月11日 )は、フランス皇帝 ナポレオン3世 の皇后 。
テバ伯爵令嬢マリア・エウヘニア・イグナシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック (スペイン語 : María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba )として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー (フランス語 : Eugénie, Impératrice des Français )となった。
生涯 少女期 「ウジェニー皇后と女官たち」ヴィンターハルター 画、1855年、コンピエーニュ 宮殿 (fr ) 第二帝政美術館蔵 スペイン ・グラナダ において、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族 ドン・シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ と、スコットランド人 の父とベルギー人の母の血を引くマリア・マヌエラ・キルクパトリック の間に生まれた。ドン・シプリアーノはボナパルト主義 者であった。マヌエラの父、クローゼンバーン出身のウィリアム・カークパトリックは在マラガ のアメリカ合衆国 領事 で、後に大手のワイン 販売業者となった。エウヘニアの1つ上の姉マリア・フランシスカ・デ・サレス もまた「パカ」の愛称で知られる。2人は1834年から1838年までパリのフォーブール=サンジェルマン ないしアンヴァリッド 界隈ヴァレンヌ街にある聖心会 修道院(現在のロダン美術館 が入るビロン館)で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎないカトリック としての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々はエウヘニアの信仰に大きな影響をもたらした。エウヘニア・デ・モンティホの名はサクレクールで学んでいる頃からフランス 国内で知れ渡ることになる。
エウヘニア姉妹は家族内ではフランス語 を日常語として使い、スペイン語 を正式に読み始めたのは12歳のときからである。幼い頃から父に連れられて乗馬をし、時には焚き火をして野営するような遠乗りに出かけている。水泳 も幼い頃から好んだスポーツである。11歳の頃に、姉とともにブリストル にあるイギリス系の学校に入れられたが、家庭教師と共に姉妹は脱走してしまう。この頃、メリメ の紹介で小説家のスタンダール と知り合っている。母のサロンに2人が現れるとウジェニーたちは彼らの話に夢中になった。メリメはウジェニーの生涯の友となっている。エウヘニアが13歳の時、最愛の父ドン・シカプリアーノは亡くなった。父が亡くなると母マヌエラとの仲はあまりうまくいかなくなった。
姉のパカは家族の栄典のほとんどを相続し、1849年 に幼馴染の第15代アルバ公 ハコポ・フィツ=ハメス・ストゥアルト(英語版 ) と結婚した。アルバ公に恋をしていたウジェニーは、いつかはアルバ公に嫁ぎたいと願っていたが、母は静かな性格のパカをアルバ公に嫁がせたのだ。失恋の痛手から男装しマドリードの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続いた。しかし愛してやまない姉夫妻を友人として認めることにし、生涯の友人となった。カトリックの教えが一時は自殺も考えたエウヘニアを救ったのである。
美しきテバ女伯 「ウジェニー皇后」ヴィンターハルター画、1857年、ヒルウッド美術館 (en ) 蔵 エウヘニアは21歳の時に亡き父の持っていた多数の称号を受け継いだ。1853年 に結婚するまでは「テバ女伯」あるいは「モンティホ女伯」などの称号を使用していた。しかし、家族の称号の中には法的に姉が相続し、アルバ家 に渡ったものもある。父の死後、エウヘニアは第9代テバ女伯になり、『ゴータ年鑑(英語版 ) 』にその名が載った。ウジェニーの死後、モンティホ家の称号の全てが、フィツ=ハメス・ストゥアルト家(アルバ公およびベルウィック公)のもとに渡った。
この頃、エウヘニアはフランスの社会主義 理論家のシャルル・フーリエ が提唱する独自の社会主義思想に傾倒してゆく。元々フランスで学んでいた頃から社会主義思想に興味を持っていたエウヘニアだが、25歳になる頃にはこの考えにはついて行けなくなっていた。
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて「鉄の処女」 と言われるようになる。
1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和政 の大統領になると、エウヘニアは母とともにエリゼ宮 での「皇子大統領」(Prince-Président )主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。
1853年 1月30日 、エウヘニアは前年にフランス皇帝ナポレオン3世に即位していたルイ=ナポレオンと、ノートルダム大聖堂 で結婚式を挙げた。それまでの短い間に、ナポレオン3世はカロラ・フォン・ヴァーサ (スウェーデン の廃王グスタフ4世アドルフ の元王太子ヴァーサ公 の娘、後にザクセン 王アルベルト の妃となる)、さらにヴィクトリア女王 の異父姉フェオドラ の10代の娘アーデルハイト との縁談を断わっていた。
論争を呼んだ結婚 ナポレオン3世 とウジェニー、1865年頃1853年 1月22日 の玉座からの演説において、ナポレオン3世は公式に彼自身の婚姻を発表した。いわく「朕は朕のことを知らない女性よりも、朕が愛し、尊敬できる女性を望んできた。彼女によって同盟はいくらの犠牲を混ぜつつ優位を有し続けることになるであろう」
1月29日にテュイルリー宮殿 で2人は公使らに見守られ結婚式が行われた。翌日にはノートルダム寺院 のパリ大司教の元で結婚式がもう一度行われた。
いわゆる、「愛の駆け引き」はイギリス のいくつかの風刺的なコメントによって見上げられた。『タイムズ 』誌は以下のような事を書いた。「わたしたちは、フランス帝国の年代記におけるこのロマンティックな出来事が以後最も強い反対と呼ばれてきたことを学び、極度の苛立ちを刺激した」と。ヴィクトリア女王も「下品で気がきかない縁組」と公式にコメントしている。
皇帝一族、内閣、そして宮中の下層グループやその隣人たちでさえ、誰もがこぞってこの結婚を驚くべき恥辱と認識するふりをした。多くの称号と伝統ある血統を受け継ぐ26歳のスペインの伯爵令嬢だが、彼女はボナパルト家 に十分にふさわしいとは思われなかった(もっともボナパルト家も2代前までは辺境コルシカ の小貴族にすぎず、大革命 の混乱に乗じて成り上がった帝室・王家であるが)のである。
1855年 、イギリス王室からの招待で、皇帝と共にイギリス を公式訪問した。結婚を反対されたヴィクトリア女王らと会うのが非常に気がかりであったウジェニーであるが、この公式訪問は大成功に終わった。クリミア戦争 における同盟関係を結び、ウジェニーはヴィクトリア女王から非常に気に入られ、2人は生涯の友人となった。ウジェニーは公式訪問の際にヴィッキー王女(女王の長女ヴィクトリア 、後のドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着せるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮している。ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルター を紹介され、多くの肖像画を残している。翌年のパリ万国博覧会 にはイギリス訪問のお礼に、イギリス王室の人々をフランスに招待した。1856年 3月16日、ウジェニーは皇子を生んだ。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト (ナポレオン4世)である。
ウジェニー・ド・モンティジョ 文久遣欧使節 (1862)漢方医高嶋祐啓画 ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献した。彼女は、パウリーネ・メッテルニヒ と大変親密な友人関係を持っていた。パウリーネは在フランス・オーストリア 大使 の妻であった。フランス宮廷での彼女は社会的、文化的生活に重要な役割を演じる。
ウジェニーが1855年 に着けた新しい骨組みのクリノリン は、ヨーロッパの宮廷ファッションに流行を巻き起こした。そして彼女が、1860年代の終わりに大きなスカートを捨てると、彼女の伝説めいた宮廷人シャルル・フレデリック・ウォルト の奨励によって、ウジェニーのファッションは再び流行となった。
ウジェニーの貴族的気品、豪華なドレスと伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルター によって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネット の生涯に寄せる想いは、ルイ16世 治世時に人気があった新古典様式 の家具とインテリアデザインとして宮廷の装飾に反映された。「シック 」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后の身を案じる人々もいた。
ウジェニーとルイ皇太子 のナポレオン生誕地への旅(1869年8月)J.フェラ 画[1] 煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もないころから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響を与え、1866年 には女性を初めて電報局 で雇用している。
ウジェニーはフランスで教育を受け、大変知性があったので、ナポレオン3世はよく重要な問題を彼女に相談していた。そして1859年 、1865年 および1870年 の皇帝の留守の間、彼女は摂政 として行動した。カトリックで保守的なウジェニーの影響力は、帝政のあらゆるリベラル勢力と対立した。彼女は、イタリア での教皇 の世俗権力の忠実な守護者であり、ウルトラモンタニスト であった。このためウジェニーは憎まれ、しばしばフランスの反教権主義者 によって中傷された。
普仏戦争以後 喪服姿のウジェニー、1873年 普仏戦争 でフランスが敗れ、第二帝政 が覆された後、皇后は夫とともにイギリス へと亡命し、ケント州 のチズルハースト(英語版 ) に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャー のファーンバラ にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語 でコルシカ を意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ 近くのカプ=マルタン(Cap-Martin )に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。
ウジェニーの霊廟 (聖マイケル修道院、2008年撮影) ウジェニーは1920年7月に死去した。94歳であった。姉の孫の17代アルバ公を訪ねてスペイン のマドリード に滞在していた際の死であった。彼女は1881年に自身が設立していたファーンバラの聖マイケル修道院(英語版 ) に、夫と、1879年 に南アフリカ のズールー戦争 で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌとともに埋葬された。
ウジェニーは様々な親戚に財産を遺した。彼女の不動産はアルバ家 に嫁いだ姉の孫が相続した。ファーンバラの別荘は全てのコレクションともに、夫の従弟ナポレオン公 の息子、「ナポレオン5世」ことナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト が相続し、Cyrnos荘はさらにその妹レティティアに渡った。動産 はランス の大聖堂 再建委員会に譲渡された10万フランを除いて、近親者に与えられた。
ウジェニーの没落した家族の友好協会は、1887年 にイギリスで、彼女がヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ (後にスペイン王アルフォンソ13世 の妃になる)の代母になった時に結成された。バルモラル城 で生まれたヴィクトリア・ユージェニーは、スコットランド の長老派教会 の洗礼を受けていて、この洗礼は初期のエキュメニズム の例だった。1世紀後、1990年 に生まれたヨーク公アンドルー の次女はユージェニー と命名された。
皇后は宇宙にも名を残している。小惑星 ウージェニア は彼女にちなんで命名され、その衛星プティ・プランス は彼女の息子にちなんで命名された。
称号 Doña [2] Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick (誕生時から父の死まで)Her Excellency Doña Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick, 9th Countess de Teba (父の死亡時から結婚まで)Her Imperial Majesty The Empress of the French (1853年-1871年)as well as Her Imperial Majesty The Empress-Regent during several periods (including Italian, Crimean and Franco-Prussian wars)Her Imperial Majesty Empress Eugénie of the French (1871年-1920年)関連項目 脚注 参考文献 翻訳の際、参考にしたもの。