勝新太郎

日本の俳優

勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年昭和6年〉11月29日 - 1997年平成9年〉6月21日)は、日本俳優歌手脚本家映画監督映画プロデューサー三味線師範

かつ しんたろう
勝 新太郎
勝 新太郎
『キネマ旬報』1964年2月決算特別号より
本名奥村 利夫(おくむら としお)
別名義二代目杵屋勝丸
生年月日 (1931-11-29) 1931年11月29日
没年月日 (1997-06-21) 1997年6月21日(65歳没)
出生地日本の旗 日本東京市深川区(現・東京都江東区
死没地日本の旗 日本千葉県柏市国立がんセンター東病院)[1]
国籍日本の旗 日本
身長170 cm
職業俳優歌手脚本家映画監督
映画プロデューサー三味線師範
ジャンル映画テレビドラマ
活動期間1954年 - 1997年
配偶者中村玉緒
著名な家族杵屋勝東治(父)
若山富三郎(兄)
鴈龍(長男)
奥村真粧美(長女)
主な作品
映画
不知火検校』/『悪名』シリーズ
座頭市』シリーズ /『兵隊やくざ』シリーズ
にせ刑事』/『燃えつきた地図』/『人斬り』/『やくざ絶唱』/『顔役』/『御用牙』シリーズ / 『海軍横須賀刑務所』 / 『無宿』/ 『迷走地図』 / 『帝都物語』/『浪人街
テレビドラマ
座頭市物語』/『痛快!河内山宗俊
新・座頭市』シリーズ /『警視-K
『下町物語』/『独眼竜政宗
 
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1998年
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』
毎日映画コンクール
男優演技賞
1971年『顔役』他
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本名:奥村 利夫(おくむら としお)。身長170cm[2]血液型O型[3]市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。

勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された[4][5]。2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている[4]

来歴

生い立ち

長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県で生まれる。生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。若山富三郎は二歳上の兄。宇津井健幼馴染。旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。十代のころは長唄三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。長唄の名取二代目 杵屋勝丸1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。

大映時代

1956年

23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった[6]。同年代の雷蔵・山本富士子若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが[6]1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる[7]

1961年二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している[注釈 1]。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得[8]。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、新太郎と市川蔵は大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている[7][8]

『映画情報』1965年4月号(国際情報社)より
キネマ旬報社『キネマ旬報』第406号(1966)より映画『座頭市地獄旅』ロケ。中心下が勝新太郎。右上が監督の三隅研次

勝プロ時代

1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す[8]。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎三船プロ石原裕次郎石原プロ中村錦之助の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた[9][10]

勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次安田公義森一生増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、勅使河原宏五社英雄斎藤耕一黒木和雄ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演した。また、一方では『男一匹ガキ大将』や実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』などマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。

サンパウロ日伯援護協会あゆみの箱チャリティショウ。左から森繁久彌、中沢源一郎、伴淳三郎志摩夕起夫、勝新太郎、渡辺はま子(1971年8月撮影)

特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品と評された[11][12]

またデビューして2年の俳優だった松平健を自らの弟子とし、勝自身が製作・主演したテレビドラマ『座頭市物語』に出演させて徹底的に鍛え上げ、1978年に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げた。1980年には勝プロダクションは松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』を製作している。

歌手としても、1967年に大映レコードの新譜第一号として発売した「座頭市」(別題「座頭市の唄」)がヒットした[13]

1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、活動は軌道に乗っているように見えたが、この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検される。1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるが、監督の黒澤明と衝突し降板。

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなどした。この影響を受けて勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて経営が立ち行かなくなり、1981年に12億円の負債を残し倒産。この時の記者会見で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立するが、1983年4月13日には義父・二代目中村鴈治郎が死去するなど不幸が相次いだ。

多難な晩年

1978年5月10日、マネージャーと弟子で俳優の酒井修が、阿片(アヘン)所持で逮捕される。勝はアヘン26グラム(当時の末端価格で260万円)と吸煙器を処分するよう頼んだ疑いで書類送検される。5月26日の釈明会見では「イランの貴族から贈られ、社長室に置いていたが、芸能人の大麻事件が相次いだので処分を依頼しただけ」と帝国ホテルの記者会見で語った。

1989年、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・雄大(この頃、本名で俳優デビューした)が殺陣の撮影中、斬られ役の役者を誤って真剣で斬りつけ死亡させてしまう。結局これが勝製作の最後の映画となった。勝の出演作品としては1990年、黒木和雄の監督映画『浪人街』が最後となった。

1990年1月16日、勝はアメリカ合衆国ハワイ州ホノルル国際空港で下着にマリファナコカインを入れていたとして現行犯逮捕される。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」と述べ、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはなかった。帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受ける。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。この事件以後、俳優活動の場を舞台に移す。

1996年7月に下咽頭を発病。手術はせず、抗癌剤放射線治療を行なった。入院中も外出を繰り返して寿司を楽しみ、平然と煙草をふかした。約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せた。しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだった(煙を肺まで吸い込まず、口元でふかしているだけ)、と中村玉緒や鴈龍は後に振り返っている[14]

死の前年である1996年4月23日には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」に出演した。最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。

1997年6月21日午前5時54分、入院先の千葉県柏市国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去[1][15]。65歳没。

没後

東京都港区三田の蓮乗寺にある勝の墓。兄の若山富三郎と共に眠る。
(※:写真は2012年1月6日(金曜日))

葬儀は1997年6月24日東京都中央区築地築地本願寺で行われ、約11000人が参列した。法号は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。現在は若山富三郎と共に港区三田の蓮乗寺に眠っている。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位になった。

2021年9月13日に放送されたNHK Eテレワルイコあつまれ』の「芸能界むかしばなし」にて、勝の半生の絵本風読み聞かせが、稲垣吾郎によって行われた[16]

逸話

入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであったが、雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。

1960年代後半に入ると、大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田雅一社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのためストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため、勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」ことを勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映No.1となった、と勝は語る。しかし、すぐに雷蔵のギャラと並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は、「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。

好物はオムライス。豪放磊落といわれた自身のイメージに合わないため、大映京都撮影所近くの飲食店では、店の奥でファンに見つからぬよう隠れて食べていた。

十代の頃から師匠をしていた三味線はその後も衰えなかったと伝えられている[17]

映画『人斬り』で最初に三島由紀夫に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという[18]。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった[18][19](詳細は人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫を参照)。また勝は、三島の『午後の曳航』の映画化の希望を抱いていたという[20]

勝のテレビ初主演作である『悪一代』(1969年朝日放送制作、TBS系放映)全13話のうち、最終回放送分のテープが現存しており、横浜情報文化センター内の放送ライブラリーで閲覧する事が出来る。この作品は、勝の出世作である映画『不知火検校』(宇野信夫原作)をベースに作られており、テレビドラマの演出手法の常識を破った画面構成なども話題になった。ちなみに、全13話放送分のうち、最終回1話分のテープしか現存していないのは、当時の番組は2インチVTRで制作されており、機器・テープともに高価であったため、収録されたテープのほとんどが他の番組への収録で使い回されて上書き・消去されてしまったためである[注釈 2]

1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で演じた豊臣秀吉は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公伊達政宗が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「渡辺謙(政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという[21]

洋楽ではカーペンターズの曲をよく聴いていた。そのため、中村玉緒が『トリビアの泉』(フジテレビ系)にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて…」と言っていた。

ブレイク前のMr.マリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。

晩年の住居は東京タワーが見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた[22]。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている[注釈 3]

テレビインタビューで鴈龍の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる細谷新吾(日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った[23]

「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服と豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。結局、妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに、1978年に42歳で早世した歌手の水原弘は、1960年代に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、奔放な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。

勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後九州朝日放送の社長から「勝とスティービー・ワンダーの対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている[24][25]

舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役を演じた際、あまりの填(はま)りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次が飛んだ。また、舞台『東男京女』では、ポスターで共演した妻の玉緒に馬乗りにされ、実際の芝居の中でも馬乗りにされる場面があるが、これは勝のアイデアであり、苦労させられた勝に逆襲するようで観客にウケていたと玉緒は語っている。

石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ[26]

1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言をする。しかし、玉緒に相手にされなかったため、離婚は成立しなかった。1990年、麻薬所持で逮捕されたため、5億円もの費用をかけて制作したキリンビール「ラ党の人々」のCMがたった1日で放送打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償請求の民事訴訟を起こされた。

上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには1996年2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から添い寝をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ(骨噛み)、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。

妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば…」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている[27][28]

晩年、漫画家根本敬と、舞台演出等仕事上の交遊があり、雑誌『cube(キューブ)』誌上で、勝のワンマンな人生をパロディー化した漫画、交響曲『勝(カツ)』(勝の人生を壮大かつ自己陶酔的な交響曲に喩え、彼の人生で関与した俳優、映画監督全てがオーケストラの団員として勝の人生を礼賛する内容。落語「頭山」を例に自己陶酔的な勝を揶揄。漫画作画・根本敬)のアイデアが披露された。また、根本が自身の著書の題名にし、後にクレイジーケンバンドの楽曲名にも使われた言葉「電気菩薩」は、根本との会話中で勝が発言したキーワードである。その根本の著書『特殊まんが 前衛への道』によると、1990年代にプリンスから「座頭市の姿でPVに出演して欲しい」との打診があったが、諸事情により実現しなかったという。

晩年、デニス・ホッパーとの親交は広く知られており、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーは非常に親近感を持っていた。

勝の臨終間際の前には、ちょうど巨大な台風が接近しており、台風一過と共に亡くなったという。玉緒によると、「亀岡(京都府亀岡市)にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという(朝日新聞京都、2007年12月26日)。死後、莫大な借金が残されたが、香典代わりに債権放棄した債権者もいたという。

勝が絶賛している名作映画

勝ファンのクリエイターや役者たち

出演作品

初春狸御殿』(大映、1959年
座頭市物語』(1962年)
兵隊やくざ』(1965年)

映画

シリーズ

その他

テレビドラマ

舞台

  • 旅のかげろう、三味線やくざ、森の石松、上州土産百両首(1960年10月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
  • 殺し屋一代、女夫渡り鳥、因果小僧六之助、元禄ドロンパ屋敷(1961年8月)
  • 別れ囃子、悪名座頭市物語、雲の別れ路(1962年11月)
  • (勝新太郎・朝丘雪路特別公演) 風流深川唄、座頭市物語(1968年9月1日 - 25日、名古屋・御園座)
  • 好食の草紙、座頭市喧嘩ばやし、風流深川唄、座頭市物語 (1972年9月1日 - 25日、東京・明治座)
  • 不知火検校(1994年)
  • (勝新太郎特別公演)夫婦善哉東男京女(1996年)

バラエティ

CM

  • 大塚製薬 - ウメビタ
  • 武田薬品工業 - フローミンエース
  • 麒麟麦酒 - ラ党の人々。(1990年)※前年、「キリンビール」より改称した主力商品「キリンラガービール」の宣伝を目的に、成人若年層の「ビール離れ」「ドラマ離れ」「CM離れ」に歯止めをかけるのを目標に、1年間毎日新作を放送するドラマ仕立てのCMとして制作された。作・演出につかこうへい、キャストに勝(父親)、松坂慶子(後妻)、安藤輝彦[注釈 4](長男)、手塚理美(長女)、国広富之(長女の夫)、富田靖子(二女)、藤井尚之(二女の夫)を起用。大々的にキャンペーンも行われたが、オンエアー初日に勝が麻薬所持容疑で逮捕されたため、わずか1日で放送中止[38][39]

プロデュース

監督作品

映画

  • 顔役
  • 新座頭市物語 折れた杖
  • 座頭市(1989年)

テレビドラマ

  • 唖侍鬼一法眼 第1話
  • 座頭市シリーズ
    • 座頭市物語 第3・8・9・14・16・23話
    • 新・座頭市
      • 新・座頭市 第1シリーズ 第1・7・14・15・21・27話
      • 新・座頭市 第2シリーズ 第3・5・7・10話
      • 新・座頭市 第3シリーズ 第4・6・9・21~23話
  • 痛快!河内山宗俊 第15・23・25話
  • 夫婦旅日記 さらば浪人(1976年、CX / 勝プロ)第13話
  • 警視-K 第1~4・7・9・11・13話

音楽

シングル

発売日規格品番タイトル作詞作曲編曲
テイチクレコード
1955年9月BL-5003Aかんかん蟲は唄う[注釈 5]萩原四朗大久保徳二郎
B花の桟橋大高ひさを
1955年11月BL-5010A役者道中萩原四朗
B峠越すのは
1956年1月A次郎吉笠
Bおもかげ峠[注釈 6]
1956年C-102A街の影法師前田よしえ大久保徳二郎
B今宵かぎりのボレロ[注釈 7]大高ひさを上原賢六
1956年C-104A静かな雨のロマンス大久保徳二郎
B青いドレスの女
1956年5月A青いドレスの女
B静かな雨のブルース
C-3958A三ン下月夜唄
Bお別れかいな[注釈 8]
1956年5月C-4018A元気でいろよ達者でね大高ひさを上条たけし宮脇春夫
B上海から来た男清水みのる大久保徳二郎
1956年11月C-4036Aアドマン・ブルース
B元気でいろよ達者でね大高ひさを上条たけし宮脇春夫
1957年A-2737A春雨じゃ濡れて行こう
Bよみ売り三味線
1957年12月A-2927Aおとぼけ仁義[注釈 9]
B追っかけ笠[注釈 10]
1958年8月C-4203A東海道の野郎ども[注釈 11]
B惚れたのヨ[注釈 12]
東芝音楽工業
JP-1120Aこれが未練という奴か
B男の泣き場所
JP-1126A深夜の銀座裏
B恋なんか御免だ
JP-1199A今夜はわかった藤間屮雄増田幸造
Bだからお前が可愛いのさ大沢浄二
JP-1339A今宵限りの三度笠
B夢でござんす
1964年11月TP-1001Aど根性一代[注釈 13]勝新太郎

十二村哲

大久保徳二郎
B男の人生[注釈 14]島田磬也
大映レコード
1967年8月D-1A座頭市[注釈 15]川内康範曽根幸明
B座頭市ひとり旅[注釈 15]
1967年11月D-9Aあき子
Bあれっきり
1968年3月D-20A恋は気まま水島哲
Bいつかどこかで曽根幸明池田孝
1968年9月D-57A座頭市子守唄[注釈 16]川内康範曽根幸明
Bどんとやれ曽根幸明池田孝
1968年11月D-62Aシーサイド横浜西川ひとみ
Bさよならしようぜ大給櫻子池田孝
1968年12月D-66A悪名(河内音頭)[注釈 17]鉄砲光三郎
B悪名のテーマ(セリフ入り)
1969年6月D-86Aごめんね坊や水島哲曽根幸明
B涙はあれに池田孝
1970年5月D-108Aいつかどこかで水島哲曽根幸明
BSunny = サニーBobby Hebb

訳:曽根幸明

Bobby Hebb池田孝
1970年8月G-1A座頭市の唄川内康範曽根幸明
B座頭市子守唄いわせひろし曽根幸明池田孝
1970年11月G-4A夜と恋の終り川島朗
Bおまえは何処に水島哲
1971年5月G-22Aいつかどこかで曽根幸明
B涙はおれに曽根幸明池田孝
日本コロムビア
1972年4月SAS-1615A兵隊やくざ石本美由起山路進一
B男と男美沢香村井邦彦馬飼野俊一
ユニオンレコード
1973年4月US-778A橋ぐれる小池一夫猪俣公章池多孝春
B別れ手錠
東芝EMI
1973年TP-2954A孤独におわれて[注釈 18]安井かずみ冨田勲
Bひとの出逢い有馬三恵子竜崎孝路
1974年TP-20055Aおてんとさん[注釈 19]阿里あさみ冨田勲
B座頭市ブルース[注釈 20]小谷充
ビクター音楽産業
1977年SV-6258A座頭市子守唄[注釈 21]いわせひろし曽根幸明
Bいつかどこかで水島哲曽根幸明馬飼野俊一
ワーナー・パイオニア
L-1138PAさすらいの旅山口あかり平尾昌晃竜崎孝路
B波止場町・ふたり町ちあき哲也
クラウンレコード
1980年CWA-21Aにごり水山田孝雄叶弦大伊藤雪彦
B男心
日本フォノグラム
1982年7PL-75A夜はくりかえす岩谷時子三木たかし田辺信一
BLove You Again荒木とよひさ三木たかし
1982年7PL-78A浮遊の夏島武実宇崎竜童若草恵
Bぬくもり荒木とよひさ三木たかし
センチュリーレコードポニー・キャニオン
1994年5月20日1泣くなよ補:武藤けんじ曽根幸明
2ごめんね坊や水島哲
徳間ジャパンコミュニケーションズ
2015年11月3日TJKA-100051Sunny = サニー
2Summer Time = サマー・タイム

アルバム

  • 夜を歌う(大映レコード)※現行CDでは、8曲のボーナストラックが追加され、徳間ジャパンより発売されている。
  • 人生劇場 勝新太郎・古賀メロディーを唄う(1970年、日本コロムビア
  • 座頭市子守唄(1977年9月25日、ビクター音楽産業)※未CD化
  • THE MAN NEVER GIVE UP(1982年、日本フォノグラム
  • 遊びばなし うたとはなしと三味線と(1995年、Sony Records)
  • 歌いまくる勝新太郎(1997年、Pヴァイン)大映レコード時代の編集盤
  • もういちど、遊びばなし(1998年、Sony Records)
  • 歌いまくる大映スター(大映レコード)
    • 2007年に紙ジャケット仕様でPヴァインより再発。1968年の大映レコードのイベントでの模様を収録したライブ盤で、勝新太郎も参加。『座頭市』、『シーサイド横浜』、『座頭市子守唄』の、このアルバムでしか聴けないライヴ・バージョンが収録されている。

著作

  • プレイボーイ特別編集 写真集「勝vs美枝子」(集英社、1980年)
  • 『俺・勝新太郎 劇薬の書』(廣済堂出版、1992年/廣済堂文庫、1998年、改訂版2008年)- 新版解説吉田豪
  • 『裸舞(Love) - 三浦綺音写真集』撮影(ワニブックス、1994年)
  • 『泥水のみのみ浮き沈み―勝新太郎対談集』(文藝春秋、1994年/文春文庫、2017年) - 8名との対談

関連項目

脚注

注釈

出典

参考文献

外部リンク