中山豊三

中山 豊三(なかやま とよぞう、1889年明治22年)2月18日 - 1946年昭和21年)3月26日)は、日本実業家雑誌編集者である。中山太陽堂取締役副社長、「阪神間モダニズム」として謳われる大阪市出版社プラトン社社主、太陽製薬創業社長として知られる。

なかやま とよぞう

中山 豊三
Toyozo Nakayama
生誕 (1889-02-18) 1889年2月18日[1]
日本の旗 日本 山口県豊浦郡滝部村[1]
(現・同県下関市豊北町大字滝部
死没 (1946-03-26) 1946年3月26日(57歳没)[2]
日本の旗 日本 長野県北佐久郡志賀村[2]
(現・同県佐久市志賀)
国籍日本の旗 日本
出身校早稲田大学専門部政治経済科卒業[1]
職業実業家雑誌編集者
配偶者イト[3]
子供中山進一(太陽製薬 二代目社長)[3]
中山小一郎
家族中山太一・中山喜助
栄誉紺綬褒章
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人物・来歴

1889年明治22年)2月18日、山口県豊浦郡滝部村(現・同県下関市豊北町大字滝部)で中山小一郎の四男として生まれる[1]

1911年(明治44年)4月、早稲田大学専門部政治経済科卒業[1]。実兄の中山太一1881年 - 1956年)が1903年明治36年)に創立した「クラブ洗粉」「クラブ化粧品」で知られる化粧品会社・中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)に入社、営業部長、東京支社長を経て、1939年昭和14年)11月の法人改組に伴い副社長に就任した[4]。この間、1922年大正11年)、同社が大阪市に設立した出版社プラトン社」の社主となる。中山太陽堂が顧問に迎えていた小山内薫編集長に据え、プラトン社は同年4月に『女性』、翌1923年(大正12年)12月に『苦楽』の2誌を創刊した[5]

1924年(大正13年)10月、出身地である滝部村の瀧部尋常高等小学校(後の豊北町立滝部小学校)に、ルネサンス様式の洋館の新校舎を中山太一・豊三・喜助の三兄弟連名で寄贈する[6]。同校舎は滝部小学校の移転に伴い、1980年昭和55年)11月に「豊北町歴史民俗資料館」として開館し、2005年平成17年)2月の下関市と豊浦郡の合併に伴い「下関市立豊北歴史民俗資料館」へ改称している[7]。なお、瀧部尋常高等小学校と講堂の建築資金2万3300円(当時)を寄附した功績により、豊三・喜助両兄弟は1928年(昭和3年)10月18日に紺綬褒章を下賜されている[8][1]

プラトン社は、小山内のみならず、直木三十五川口松太郎、松阪青渓らの文人、山六郎山名文夫岩田専太郎竹中英太郎イラストレーターグラフィックデザイナーを社員として抱え、執筆者に里見弴吉井勇岡本綺堂白井喬二谷崎潤一郎菊池寛山本有三江戸川乱歩小酒井不木横溝正史牧逸馬大下宇陀児らがおり、中山は大いに交流した。とくに後半においては、江戸川らの探偵小説作家たちに広く発表の場を与えた[9]。中山が永井荷風に原稿依頼する様子が、永井の『断腸亭日乗』にも登場する[10]

1928年昭和3年)、6年間をもってプラトン社を廃業した。

1938年(昭和13年)3月15日、東京に太陽製薬株式会社を創業する。翌1939年(昭利14年)、同社は養毛剤の先駆である「マルベリーヘアートニツク」を発売した。有効成分を抽出する製法特許を蚕糸試験場と共同開発して取得した[5]

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)3月26日、病気療養中の長野県北佐久郡志賀村(現・同県佐久市志賀)の疎開先で死去[2]。同年4月26日に東京築地本願寺に於いて[11]、4月28日に大阪御堂筋本願寺津村別院で中山太陽堂の社葬が執り行われた。法号は「淳信院釋瑞豊」[2]1946年(昭和21年)9月、二男の中山進一が20代半ばの年齢で太陽製薬社長に就任している[3]

関連事項

脚注

参考文献

  • 『大日本徳行録』 2巻、大日本徳行録刊行会、1943年3月30日。doi:10.11501/1039774 
  • 尾形国治「解説」『「女性」総目次』、雑誌研究会、1982年12月3日、8頁、doi:10.11501/1566349 

外部リンク