九鬼浄隆

日本の戦国時代の武将

九鬼 浄隆(くき きよたか、旧字体九鬼淨隆)は、日本戦国時代武将九鬼氏の第9代当主。

 
九鬼 浄隆
時代戦国時代
生誕不明
死没永禄3年6月4日1560年6月27日
戒名月空淨明禪
墓所三重県鳥羽市の常安寺
官位従五位下宮内少輔
氏族九鬼氏
父母九鬼定隆
兄弟浄隆、光隆、嘉隆、松木修理室、間柄千助室、白主佐衛門室
澄隆、娘(荒島越中室)
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略歴

九鬼定隆の長男として志摩国答志郡の田城城(三重県鳥羽市岩倉町)にて生まれる。天文20年(1551年)、父の死により家督を継ぐ。

九鬼の勢力が大きくなり他の地頭との対立が目立つようになると、安楽島・相差・国府・甲賀・和具・小鹿・浜島の志摩七島党は伊勢国司北畠具教に援助を願い入れ、田城城を攻めた[1]。浄隆は、波切城より馳せ参じた弟の嘉隆を従え居城の防戦に努めたが、戦力は低下するばかりとなり、戦の中で病に臥し永禄3年に死去した。一説に討死したともされる。

脚注

関連項目