小田切茂富

日本の戦国時代~江戸時代初期の武将。甲斐武田家・徳川家の家臣。武田家臣小田切昌成の子で、江戸幕府旗本小田切氏初代当主。武田信玄近習衆・徳川四奉行の一人として名を連ねる

小田切 茂富(おたぎり しげとみ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将甲斐武田氏徳川氏家臣。徳川四奉行の一人。『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』では実名を「昌吉」とされているが、文書上からは「茂富」が確認されている。

 
小田切茂富
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文元年(1532年
死没慶長16年9月24日1611年10月29日
別名昌吉[1]
墓所山梨県甲府市古府中町の大泉寺
官位大隅守
主君甲斐武田氏徳川家康
氏族小田切氏
父母父:小田切昌成、母:教来石信保娘(馬場信春妹)[2]
兄弟茂富、某(次助)、某(三十郎)、某[2]
牛奥織部娘[3]
昌重(治大夫)、某(嘉兵衛)、昌次(庄三郎)、昌成(太郎右衛門)[2]
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略歴

寛政重修諸家譜』によれば父は小田切昌成で、母は武田家の譜代家老・馬場信春の妹であるという[2]。『寛政重修諸家譜』によれば、室は牛奥織部の娘。

甲陽軍鑑』によれば、茂富は子・次太夫と共に原昌胤の「おぼへの衆」として配置されたという。武田時代には天正6年(1578年)11月11日付小田切茂富宛武田家官途状に名が見られる[4]

『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』に拠れば、茂富は天正10年(1582年)3月の織田信長による武田征伐での甲斐武田氏の滅亡後、徳川家康に仕える。家康は信長没後の天正壬午の乱を経て甲斐国を支配しており、武田遺臣が家康に対して忠誠を誓った「天正壬午起請文」においても信玄近習衆として茂富の名が見られる。茂富は家康の甲斐統治に携わり、「棲雲寺文書」によれば、天正11年4月20日には同じ武田遺臣の桜井信忠と連署で禁制を発している。

豊臣政権時代の天正18年(1590年)には家康が関東へ移封されるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び家康が領し、代官頭・大久保長安配下に徳川四奉行が配置される。茂富は慶長6年(1601年)から桜井信忠、跡部昌忠・石原昌明と共に四奉行を務めている。なお、四奉行は初期に桜井・石原のほか市川元松(家光)・工藤喜盛が務めていたが、市川は文禄2年(1593年)9月1日に死去し、工藤も天正18年から慶長年間の間に死去したと見られるため、両名に代わり小田切・跡部が加わった。

茂富は他の四奉行と共に、慶長検地(石見縄)の連署状や寺社宛の禁制などに多く名を残している。慶長12年(1607年)8月には桜井と共に平岩親吉から甲府城を受け取っている。慶長6年(1601年)9月21日には、牛奥与左衛門尉の養子となった子・太郎右衛門が高野山成慶院において茂富の逆修供養(生前供養)を行っている。

慶長16年(1611年)、80歳で死去。

脚注

出典

  • 『山梨県史』通史編3近世1
  • 『山梨県史』資料編8近世1(領主)
  • 『武田氏家臣団人名辞典』