本多正氏

本多 正氏(ほんだ まさうじ、元亀元年(1570年) - 文禄4年8月24日1595年9月27日))は、安土桃山時代武将。通称は平四郎。本多正信の弟である本多正重の子。

生涯

元亀元年(1570年)[注釈 1]本多正重の長男として生まれる[1]天正16年(1588年)に徳川家康御目見した[1]。父の正重は武名の高い人物であったが、この時期には徳川家を離れている[2]

正氏は小田原征伐九戸政実攻めに従軍し、朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城詰めに随従した[1]

寛政重修諸家譜』の記述によれば、正氏は徳川家を去って豊臣秀次に仕えようとし、秀次家臣の羽田正親(長門守)と計るところがあったが、転仕が実現する前に秀次事件が発生した[1]。文禄4年(1595年)8月24日に羽田正親が殉死し、正氏は羽田正親を介錯して自らも自害した[1]。享年26[1]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」
    • 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082713/366

関連項目