鈴木悦
鈴木悦(すずき えつ、1886年[2] - 1933年[1])は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師[3]。
すずき えつ 鈴木 悦 | |
---|---|
生誕 | 1886年[1] 日本愛知県渥美郡老津村[2] |
死没 | 1933年9月[2] 日本愛知県豊橋[2] |
出身校 | 早稲田大学 |
職業 | 著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師 |
配偶者 | 彦坂かね(1907-1922) 田村俊子(1923-) |
略歴
- 1886年(明治19年) - 愛知県渥美郡老津村に生まれる[2]。
- 1900年(明治33年) - 老津小学校を修了[2]。
- 1901年(明治34年) - 成城中学校に入学[2]。
- 1906年(明治39年) - 東京外語大学仏文科から早稲田大学英文科へ移る[2]。
- 1907年(明治40年) - 彦坂かねと結婚[2]。彼女との間に4人の男女が生まれたが、全て早世した[2]。
- 1910年(明治43年) - 早稲田大学英文科を卒業し、萬朝報に入社[2]。
- 1914年(大正3年) - 萬朝報を退社[2]。植竹書院入社[2]。
- 1917年(大正6年) - 「戦争と平和」全訳本出版[2]。
- 1918年(大正7年) - カナダへ渡り大陸日報の主筆になる[2]。また、同年田村俊子もカナダへ渡る[2]。
- 1920年(大正9年) - カナダ日本人労働組合を結成する[2]。
- 1922年(大正11年) - 正式に彦坂かねと離婚[2]。
- 1923年(大正12年) - 鈴木悦と田村俊子、正式に結婚[2]。
- 1932年(昭和7年) - 健康に不安をおぼえて、帰国。田村は現地に残った[2]。
- 1933年(昭和8年) - 上智大学ならびに明治大学の新聞学科の講師になった[2]。同年9月、豊橋にて死去[2]。
- 1936年(昭和11年) - 田村俊子、帰国[2]。
文学碑
鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある[5]。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである[5]。
脚注
参考文献
- 田村紀雄『鈴木悦(すずき・えつ)-カナダと日本を結んだジャーナリスト』リブロポート〈シリーズ民間日本学者35〉、1992年12月。ISBN 4-8457-0787X。
- 豊橋市中央図書館『豊橋の文学碑―ガイドブック―』豊橋市中央図書館、1996年3月。
外部リンク
- 早稲田と文学(鈴木悦) - ウェイバックマシン(2015年4月29日アーカイブ分) - 早稲田大学