リック・カーライル

アメリカのバスケットボール選手、ヘッドコーチ (1959 - )

リック・カーライルRick Carlisle)ことリチャード・プレストン・カーラルRichard Preston Carlisle'1959年10月27日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州オグデンズバーグ出身のバスケットボール指導者である。NBAインディアナ・ペイサーズでヘッドコーチを務めている。

リック・カーライル
Rick Carlisle
ダラス・マーベリックスHC時のカーライル
インディアナ・ペイサーズ HC
役職ヘッドコーチ
所属リーグNBA
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1959-10-27) 1959年10月27日(64歳)
出身地ニューヨーク州の旗 ニューヨーク州オグデンズバーグ
身長(現役時)196cm (6 ft 5 in)
体重(現役時)95kg (209 lb)
キャリア情報
大学バージニア大学
NBAドラフト1984年 / 3巡目 / 全体70位[1]
プロ選手期間1984年–1989年
ポジションPG
背番号歴34, 3, 12
指導者期間1989年–現在
経歴
選手時代:
1984-1987ボストン・セルティックス
1987オールバニ・パトルーンズ
1987-1988ニューヨーク・ニックス
1989ニュージャージー・ネッツ
コーチ時代:
1989-1994ニュージャージー・ネッツ (AC)
1994-1997ポートランド・トレイルブレイザーズ (AC)
1997-2000インディアナ・ペイサーズ (AC)
2001-2003デトロイト・ピストンズ
2003-2007インディアナ・ペイサーズ
2008-2021ダラス・マーベリックス
2021-インディアナ・ペイサーズ
受賞歴

選手時代

コーチ時代

Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

経歴

プロ入りまで

ニューヨーク州リスボン英語版で育った。マサチューセッツ州のウースター・アカデミーに進学し、メイン大学で2シーズン過ごした後はバージニア大学に転校し、キャプテンの1人としてチームを1984年のNCAAトーナメントベスト4まで進出させた[1]。大学では心理学の学位を取得した[1]

NBA

1984年のNBAドラフトボストン・セルティックスにドラフト指名され、入団。1986年のNBAファイナルで優勝してチャンピオンリングを獲得したが、カーライル自身はあまり活躍できず、1試合平均2.2得点、1.0アシスト、0.8リバウンドに留まり、1987年にチームから放出され、ニューヨーク・ニックスリック・ピティーノの下、1987-1988シーズンを過ごし、1989年ニュージャージー・ネッツで5試合プレーした。

コーチキャリア

ビル・フィッチ[2]チャック・デイリーの下でスタッフとして5年間学んだ後、1994年ポートランド・トレイルブレイザーズP・J・カーリシモヘッドコーチのもとでアシスタントコーチに就任した。その後、1997年に元チームメイトであったラリー・バードのアシスタントコーチとしてインディアナ・ペイサーズに加わった[3]。その年のペイサーズはチーム史上最多の58勝を挙げ、カーライルはオフェンシブ・コーディネーターとしてチームが躍進した要因の1つとなった[2]。チームはカンファレンスファイナルでNBAファイナル3連覇を狙うマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズを第7戦まで追い詰めた。

2000年、ペイサーズは56勝を挙げてNBAファイナルに初進出したが、ロサンゼルス・レイカーズに2-4で敗れた。シーズン終了後にラリー・バードは辞任し、後継者としてカーライルを選ぶようチームに要請したが、チームはCBAチームのオーナーであったアイザイア・トーマスをヘッドコーチに任命した。

2001年、カーライルはヘッドコーチとしてデトロイト・ピストンズに迎え入れられた。ピストンズを2年連続でプレイオフ出場に導き、2001-2002シーズンのNBA最優秀コーチ賞に選ばれた。しかしピストンズは、カーライルとの契約があと1年残っているにもかかわらずカーライルを解雇しラリー・ブラウンを後任に迎えた[2]

ピストンズを追い出されたカーライルは、2004年にアイザイア・トーマスが抜けてラリー・バードが球団社長となったペイサーズとヘッドコーチとして契約した。その年のペイサーズはNBAトップの61勝21敗(.744)を記録、ホームコートアドバンテージを獲得しプレーオフでもボストン・セルティックスマイアミ・ヒートを撃破したがカンファレンスファイナルでピストンズに敗れた。

2005年ペイサーズは11月19日に起こったパレスの騒乱で主力選手のアーテストが残り73試合全て、スティーブン・ジャクソンが30試合、ジャーメイン・オニールが15試合出場停止になるなど主力を欠くこととなった。さらにオニールとジャマール・ティンズリーが怪我を負いまともに戦える状態ではなかった。それでもなんとか第6シードとしてプレーオフに進出し1回戦でセルティックスに勝利。しかしカンファレンス準決勝でピストンズの前に敗れた。彼は2シーズンチームをプレーオフに導いたが2006-2007シーズン、オールスターブレイクでは29勝24敗だったチームは大型トレードによるチーム・ケミストリーの欠如、主力選手の欠場などにより、その後11連敗するなど35勝47敗に終わり10シーズンぶりにプレーオフを逃した後、ヘッドコーチを解任された[4][5]

その後ESPNでスタジオ解説者を務めていたが2008年5月、エイブリー・ジョンソンの後任としてダラス・マーベリックスと4年契約を結びヘッドコーチとなった[2][3][5]。アシスタントコーチに元NBAでヘッドコーチを務めたことのあるドウェイン・ケイシーテリー・ストッツが加わった[3]

2010年10月8日、練習中に倒れた[6]が、その後はチームに復帰している。 2010-2011シーズンにマーベリックスを初優勝に導いた。

2021年6月17日、マーベリックスHCを辞任[7]。辞任から1週間後の6月24日にペイサーズのHCとして2007年以来の復帰を果たした[8]

ヘッドコーチ成績

NBAヘッドコーチ実績表略号説明
レギュラーシーズンG試合数W勝利数L敗戦数W–L %レギュラーシーズン勝率
ポストシーズンPG試合数PW勝利数PL敗戦数PW–L %プレイオフ勝率
チームシーズンGWLW–L%シーズン結果PGPWPLPW–L%最終結果
ピストンズ2001–02825032.6101st in Central1046.400カンファレンスセミファイナル敗退
ピストンズ2002–03825032.6101st in Central1789.471カンファレンスファイナル敗退
ペイサーズ2003–04826121.7441st in Central16106.625カンファレンスファイナル敗退
ペイサーズ2004–05824438.5373rd in Central1367.585カンファレンスセミファイナル敗退
ペイサーズ2005–06824141.5003rd in Central624.3331st.ラウンド敗退
ペイサーズ2006–07823547.4274th in CentralMissed Playoffs
マーベリックス2008–09825032.6103rd in Southwest1055.500カンファレンスセミファイナル敗退
マーベリックス2009–10825527.6711st in Southwest624.3331st.ラウンド敗退
マーベリックス2010–11825725.6952nd in Southwest21165.762NBAチャンピオン
マーベリックス2011–12663630.5453rd in Southwest404.0001st.ラウンド敗退
マーベリックス2012–13824141.5004th in SouthwestMissed Playoffs
マーベリックス2013–14824933.5984th in Southwest734.4291st.ラウンド敗退
マーベリックス2014–15825032.6103rd in Southwest514.2001st.ラウンド敗退
Career total1050619431.5891145758.496

脚注

外部リンク