小川光氏

小川 光氏(おがわ みつうじ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名豊後永山城(丸山城)主。日田藩の初代藩主ともする。通称は左馬助[3]、壱岐守。

 
小川光氏
時代安土桃山時代 -江戸時代
生誕永禄3年1560年
死没慶長15年8月22日1610年10月8日
別名通称:左馬助、壱岐守
官位壱岐守
幕府江戸幕府
主君豊臣秀吉徳川家康
日田藩初代藩主
氏族近江小川氏
父母小川祐忠
兄弟光氏[1]祐滋(良氏)[1]、実乗[2]
なし
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略歴

小川祐忠(宗氏)の長男とも次男ともいう[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために、兄・祐滋(良氏)は一時改易処分となるが、祐忠の正室の弟にあたる一柳直盛(監物)の奔走もあって、慶長6年(1601年)に豊後国日田郡2万石に入領した。しかし、なんらかの事情があり光氏が家督を継ぎ日田に赴任した。森藩の「久留島家文書」によると祐滋の日田入領をめぐり兄弟の出入があったと記されており、父・祐忠により石田三成と関係の深かった祐滋を廃嫡し光氏を推薦したのではないかと考えられる。慶長10年の「豊後国慶長国繪圖」では光氏の知行地は2万1千石となっている。

既存の日隈城には毛利高政が城代を置いていたため、日田郡夜開郷永山[4]に新しく丸山城を築いた。城が完成する間の3年間は日田郡友田村丸山を居城とした[5]。この丸山の所在については諸説あり、現在の北友田三郎丸にある星隈公園(三郎丸砦跡[5])とする一方、岡為造著の『日田郡史』(1915年)では現在の日田市光岡岳林寺の裏手の山としている[5][3]

慶長15年(1610年)8月に病死した。光氏の死後、小川家は無嗣断絶となるが、一族の小川喜助と小川又右衛門が江戸に赴き、僧籍に入っていた兄弟の実乗をもって小川家の存続を願い出た。これは当人の拒否により実現しなかったが喜助と又右衛門はそのまま幕府に召し抱えられ、継続して日田の支配を命じられた。元和2年(1616年)8月に石川忠総が6万石で入封するまでの間、小川家が城地を管理した。

光氏の知行について

石川氏転封の寛永16年(1639年)に、旗本の小川正長[8](藤左衛門)と小川氏行[9](九左衛門)が、幕府直轄地日田玖珠速見郡内約4万1,800石の代官として着任した。慶安元年(1648年)に氏行が西下の途中で事故に遭って死亡。明暦元年(1655年)に正長も死亡し、氏行の子息の行広(又左衛門)と、正長の正久(藤左衛門)が日田代官を務めている[10]。しかし寛文5年(1665年)に支配所で農民訴訟(一揆のこと)が起きたことで、両名とも家禄没収となった。

この日田代官の小川氏と小川光氏との関係は判然としないが、小川光氏の日田入領は、代官としての赴任であるという説が定説となっている。

一方で、中野等(九州大学院教授)は慶長6年9月7日(グレゴリオ暦1601年10月2日)付けの「豊後国内御知行方目録」を示して、光氏は代官ではなく大名であった、すなわち日田領は小川氏の知行地であった可能性を指摘している[11][12]

脚注

参考文献