畠山政信

江戸時代前期の旗本

畠山 政信(はたけやま まさのぶ)は、江戸時代前期の旗本

 
畠山政信
時代江戸時代前期
生誕天正19年(1591年
死没延宝3年1月2日1675年1月17日
別名:休山
戒名一景[1]
墓所芝二本榎の広岳院[1]
官位民部大輔[2][3][注釈 1]
幕府江戸幕府 旗本
主君豊臣秀頼徳川家光家綱
氏族畠山氏(尾州家)
父母父:畠山貞政、母:貴志氏[1]
兄弟政信、宮原家政室[1]
片桐且元の娘[1]
基玄、義玄[1]、高玄[1]、能勢頼春室[1]林信篤[1]
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生涯

天正19年(1591年)、畠山尾州家当主・畠山貞政の子として生まれる[1]

畠山氏は元々河内国紀伊国守護だったが、貞政の頃にはその地位を失っており、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州攻めでは秀吉軍に抵抗して敗れ、紀伊における有力領主としての立場も失っていた[5]

その後、紀伊で生まれた[注釈 2]政信は、豊臣秀頼の重臣・片桐且元の娘婿となり、慶長19年(1614年)10月1日に、且元が大坂城を退城する際、ともに豊臣家から離脱する[6]。豊臣家離脱後は、且元のもとで大坂の役を戦い、大坂落城後の元和元年(1615年)、徳川家康からその功を賞された[2]

寛永元年(1624年)10月になると、江戸に上って、3代将軍徳川家光に仕え、摂津国八部郡に采地300石を賜る[1]。寛永3年(1626年)に家光が上洛する際は、家光らに先立って京都に入り、寛永11年(1634年)の上洛の際も同じ任を受けた[1]

寛文4年(1664年)に致仕し、休山と号す[1]

延宝3年(1675年)1月2日に死去[1]。享年85[1]

寛文4年(1664年)に跡を継いだ子の基玄は、後に奥高家に任じられ、300石だった知行も加増を重ねて5000石にまで至った[1]

脚注

注釈

出典

先代
畠山貞政
河内畠山氏(尾州家)
畠山政信
次代
畠山基玄