篠原長重 (三好家臣)

三好長治の家臣

篠原 長重(しのはら ながしげ)は、戦国時代武将三好氏の家臣。阿波国阿波郡秋月城[2]

 
篠原長重
時代戦国時代
生誕天文24年(1555年
死没元亀4年7月16日1573年8月13日
別名通称:小字小一郎、孫四郎
官位大和守
主君三好長治
氏族阿波篠原氏橘朝臣
父母父:篠原長房
三好実休[1]
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生涯

天文24年(1555年)、篠原長房の子として誕生した。阿波篠原氏は代々、阿波の守護代である三好氏に仕え、長重の父・長房の代には若年であった三好家当主・三好長治とその弟である讃岐国十河存保を補佐し、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。

長重は父と共に各地の合戦に参加し、「手柄中々申しつくしがたし」と賞された[3]

元亀元年(1570年)10月、長重は摂津国に上陸し(野田城・福島城の戦い)、叔父・篠原自遁と連署で本興寺に禁制を発給し[1]元亀2年(1571年正月には四国に戻り讃岐の西光寺に、その後、畿内に戻り元亀3年(1572年)12月には山城国大山崎の離宮八幡宮にそれぞれ禁制を発給した[1]

しかし、父・長房と、自遁・長治が不和となり、元亀4年(1573年)5月、長治と十河存保の軍勢が長房の居城である上桜城に押し寄せた(上桜城の戦い)。約2か月の籠城戦の後、長房と長重は、同年7月16日早朝、十河存保の陣を急襲したが敗北し、長重は讃岐香西氏の家臣・植松資久に討ち取られた[4]。享年19[5]

脚注

出典