ジョージ・スペンサー=チャーチル (第5代マールバラ公)

第5代マールバラ公爵ジョージ・スペンサー=チャーチル: George Spencer-Churchill, 5th Duke of Marlborough, FSA1766年3月6日 - 1840年3月5日)は、イギリスの貴族、政治家。

第5代マールバラ公爵
ジョージ・スペンサー=チャーチル
George Spencer-Churchill
5th Duke of Marlborough
生年月日1766年3月6日
没年月日 (1840-03-05) 1840年3月5日(73歳没)
死没地ウッドストック英語版ブレナム宮殿
出身校オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党ホイッグ党トーリー党
称号第5代マールバラ公爵

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区オックスフォードシャー選挙区英語版[1]
トレゴニー選挙区英語版[1]
在任期間1790年 - 1796年[1]
1803年 - 1806年[1]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間1806年3月5日 - 1840年7月1日[2]
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1817年までブランドフォード侯爵(Marquess of Blandford)の儀礼称号を使用した。

経歴

1766年に第4代マールバラ公爵ジョージ・スペンサーの長男として誕生。マールバラ公爵家の嫡男として生誕時よりブランドフォード侯爵の儀礼称号を有していた[1]

1776年イートン校に入学。1784年にはオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学し、1786年に大学を卒業する[1]

1790年から1796年までオックスフォードシャー選挙区英語版から選出されてホイッグ党庶民院議員を務める。1803年から1806年までトレゴニー選挙区英語版から選出されてトーリー党の庶民院議員を務める。1804年から1806年にかけては第一大蔵卿の事務所に勤務した。1806年に繰上勅書によって父が未だ存命ながら、第9代スペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵位を継承し、貴族院議員に列する[1][2]。1817年に父の死により第5代マールバラ公爵位を継承する[1]

彼の代の頃からマールバラ公爵家の家計は悪くなり、負債に苦しんだ[3]

1817年に勅許を得て家名を「スペンサー」から「スペンサー=チャーチル」の二重性に変更した[4]ワーテルローの戦いの戦勝ムードの中で武勲ある初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの家名を復活させたものだった[5]

1840年3月13日に居城のブレナム宮殿で死去。マールバラ公爵位は長男のジョージ・スペンサー=チャーチルが継承した[1]

人物

道楽者の伊達男で自尊心が強かったといい、家名にチャーチルを加えたのもそのためと思われる[3]。東洋様式の物を好み、日本式の応接間を作ったり、インドの掛け軸を集めたりした[3]

「石庭」と呼んでいた庭園を作るのに凝っていた。これは少し触れただけ出入り口が開く巨大な岩の中に作った庭園である。岩の中は貝殻などで装飾されていた[3]

栄典

爵位

その他

家族

妻スーザンを描いた絵。

1791年にスーザン・スチュワート(第7代ギャロウェイ伯爵英語版の娘)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けた[1]

出典

参考文献

  • 臼田昭『モールバラ公爵のこと チャーチル家の先祖』研究社出版、1979年。ISBN 978-4327342098 
  • ロバート・ペイン英語版 著、佐藤亮一 訳『チャーチル』法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1993年。ISBN 978-4588021466 
  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 

外部リンク

議会
先代
チャールズ・スペンサー卿英語版
第7代ウェンマン子爵
オックスフォードシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1790年 - 1796年
同一選挙区同時当選者
チャールズ・スペンサー卿英語版
次代
チャールズ・スペンサー卿英語版
ジョン・フェーン英語版
先代
サー・ライオネル・コプレイ英語版
ジョン・ニコラス
トレゴニー選挙区英語版選出庶民院議員
1802年英語版 - 1804年
同一選挙区同時当選者
チャールズ・コックレル
次代
チャールズ・コックレル
ジョージ・テルソン
イングランドの爵位
先代
ジョージ・スペンサー
第5代マールバラ公爵
1817年 - 1840年
次代
ジョージ・スペンサー=チャーチル
第9代ウォームレイトンのスペンサー男爵
(繰上勅書により)

1806年 - 1840年