三淵嘉子

日本の女性弁護士、判事 (1914-1984)

三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年大正3年〉11月13日[1] - 1984年昭和59年〉5月28日[1])は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所[2]

みぶち よしこ

三淵 嘉子
昭和13年(1938年)頃
生誕武藤嘉子
(1914-11-13) 1914年11月13日
イギリス直轄植民地シンガポール
死没 (1984-05-28) 1984年5月28日(69歳没)
国籍日本の旗 日本
別名和田嘉子
出身校明治大学法学部
職業弁護士判事
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略歴

台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女[3]として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。

東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し[4]、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年明治大学法学部に入学[5]1938年高等試験司法科試験に合格し[6]、同大学を卒業[7][8]1940年第二東京弁護士会に弁護士登録をした[4]ことで明治大学同窓の中田正子久米愛と共に日本初の女性弁護士となる[9]1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫[10]と結婚する[11]も、和田が召集先の中国で発病、1946年に帰国後長崎の陸軍病院で戦病死[12]する[注 1]1945年に長男や戦死した弟の妻子とともに福島県河沼郡坂下町(現・会津坂下町)へ疎開[13]ののち、両親の住む川崎市に移り住む[4]

1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任[14]。1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子[15]に次いで、同月28日に東京地裁判事補となる[16][17]。1952年、名古屋地方裁判所で初の女性判事となる[2]。1956年、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚。三淵姓となる[18]

1956年、東京地裁判事となる。広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。1963年12月7日、判決[19]は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した[20]

1963年より1972年まで東京家庭裁判所判事。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した[21]

1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる[22]。1973年11月に浦和地裁の所長となり[23]、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め[24]、1979年に退官[25]。1980年に再び弁護士となり[26]、その後は日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めた。

1984年5月28日[2]午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去した[27]。没日を以て、従三位に叙せられ、勲二等瑞宝章を授けられる[28]

2024年度前期放送のNHK連続テレビ小説虎に翼』で伊藤沙莉が演じる主人公、「猪爪寅子」のモデルとなる[29]

家族

  • 父・武藤貞雄(1886-1947) ‐ 実業家。香川県丸亀市出身。代々丸亀藩の御側医を務めた宮武家の二男として生まれ、妻ノブの伯父で丸亀の市会議員・武藤直言の養子となる。一高東京帝国大学法科大学政治科卒業後、1913年より台湾銀行シンガポール支店勤務、同行ニューヨーク支店長、同東京支店支配人を経て、台湾銀行の融資により設立された南洋鉱業公司に1925年に転じ、同社理事兼総支配人、石原産業海運顧問を務め、自身でも昭和興業合資会社を興し代表となり、その後北海鉱業、日本防災工業、昭和金属、昭和化工の社長などを務めた。なお台湾銀行の頭取(1913-1925)を務めた中川小十郎とは一高、帝大政治科の同窓生[30][31][32][33][34]。嘉子の良き理解者であり、女性が職業を持ち自立する事を考えており、嘉子に「医者や弁護士などを目指すのはどうか」と提案した。
  • 母・ノブ(1892-1947) ‐ 広島・宇野清吉の妹。幼い頃に父の宇野伝二郎を亡くし、金貸し業と借家業を営む裕福な伯父・武藤直言・駒子夫婦のもとで育つ[30][35]。嘉子が法律家を目指す決意をした際は、「法律等を勉強しては嫁の貰い手が無くなる」と泣きながら猛反対したという。
  • 弟・武藤一郎(1916-1944) ‐ 横浜高等商業学校卒業後日立製作所に入ったが出征し、1944年乗船していた富山丸が米軍の魚雷で沈没し、妻子を残して早世[36]
  • 弟・武藤輝彦(1921-2002) ‐ 東京帝国大学文学部美学科卒業後、昭和化工重役を経て日本煙火協会専務理事。
  • 弟・武藤晟造(1923-?) ‐ 医師。
  • 弟・武藤泰夫(1928-?) ‐ 林野庁職員[31]。2018年以後に死去[37]
  • 夫・和田芳夫(?-1946) ‐ 武藤家の元書生。貞雄の丸亀中学時代の親友の甥。丸亀中学校卒業後、勤労学生として明治大学夜間部で学び、東洋モスリンに就職、嘉子に見そめられて1941年結婚、1945年に出征し、1946年長崎で戦病死[38]
  • 夫・三淵乾太郎(1906-1985) ‐ 判事。初代最高裁判所長官三淵忠彦の長男。1956年に嘉子と再婚[41]。前妻との間に四児。実弟に千代田生命保険社長の萱野章次郎、大東京火災海上保険常務の三淵震三郎、縁戚に反町茂作石渡敏一石渡荘太郎白仁武ら政財界の大物が名を連ねる。

エピソード

  • 東京地裁判事時代、三淵が審理を担当していた民事事件の当事者が、法廷外の廊下で三淵に切り付けるという出来事があった。三淵に怪我はなかったものの、女性判事による審理の不手際から刃傷沙汰が起きたのだと世間から無根拠に言われるのではないかと思うと情けない、と吐露した[42]
  • 新潟家裁時代も、所長をしながら自ら少年事件の審判を担当している。当時立ち会った調査官によれば、三淵の心のこもった「説諭」が感動的だったという。事件を起こした少年も付き添いの保護者も、三淵の語りかける言葉に涙を流している[43]

脚注

注釈

出典

参考文献

外部リンク

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