ダンダーナカーンの戦い

ダンダーナカーンの戦い英語: Battle of Dandanaqan)は、1040年セルジューク朝ガズナ朝の間で、メルヴ(現トルクメニスタン近郊のダンダーナカーン(دَندانَقان)に於いて起こった戦いである。セルジューク朝の勝利に終わり[1]、ガズナ朝のホラーサーン支配が終焉した。

ダンダーナカーンの戦い

ダンダーナカーンの戦いの図
1040年5月23日
場所ダンダーナカーン(メルブ近郊)
結果セルジューク朝の勝利[1]
衝突した勢力
ガズナ朝セルジューク朝
指揮官
マスウード1世
アリー・ダーヤー
アフマド・シーラ―ズィー
アブー・サフル・ザウザーニー
アブドゥルラッザーク・マイマンディー
ベグトゥグディー
スバーシー
チャグリー・ベク
トゥグリル・ベク
アブー・マンスール・ファラーマルズ[2]
戦力
不明(大軍であったとされる。)
60頭[3]または12頭[4]戦象
16,000[5]

背景

セルジューク族の族長トゥグリルとその兄チャグリーが挙兵すると、ガズナ朝領域への脅威と捉えられた。領域際の諸都市をセルジューク軍が襲うと、スルターンマスウード1世マフムードの息子)は、セルジューク族をガズナ朝領域から追放することを決めた。

戦い

マスウード率いるガズナ朝軍のサラフスへの進軍の間、セルジューク軍の襲撃がガズナ朝軍を一撃離脱戦法で苦しめた。セルジューク軍はガズナ朝軍の供給線を断ち、近隣の井戸から切り離した。ガズナ朝軍の規律が乱れ、士気は著しく低下した。ついに1040年の5月23日、16000人ほどのセルジューク軍が、ダンダーナカーンでガズナ朝軍と衝突し、メルヴ近郊で彼らを破った。[5]

影響

その後セルジューク軍は、さしたる抵抗にもあわず、ホラーサーンとその諸都市を征服した。[6] 1050-51年、トゥグリルのイスファハーン包囲が成功すると、「大セルジューク帝国」が形成された。一方、ガズナ朝のマスウードは当初インドに撤退し、廃位され、牢獄で殺害された。[7] 東経61度20分43秒 / 北緯37.391933度 東経61.345353度 / 37.391933; 61.345353

脚注

参考文献

  • Bosworth, C.E., The Ghaznavids:994-1040, Edinburgh University Press, 1963.
  • Christian, David, A History of Russia, Central Asia, and Mongolia , Wiley-Blackwell, 1998.
  • Grousset, Rene, The Empire of the Steppes: A History of Central Asia , Rutgers University, 2002.