ユアヒットパレード (南日本放送)

南日本放送の洋楽専門ラジオ番組

ユアヒットパレードは、MBC南日本放送[注釈 1]で開局の黎明期である1956年昭和31年)2月11日[2][3]から続く、洋楽専門のラジオ番組

ユアヒットパレード
ジャンル音楽
放送方式収録
放送期間1956年2月11日 -
放送時間毎週月曜日21:30 - 22:00(30分)
放送局南日本放送
パーソナリティスマイリー園田
テーマ曲ヒューゴ・ウィンターハルター楽団「Melancholy Serenade[1]
公式サイト公式サイト
テンプレートを表示

1953年(昭和28年)の開局日から同日開始され続いている『希望のリボン』と『城山スズメ』に次ぐ、現在放送中のMBCラジオにおける番組では3番目に長い長寿番組でもある。

概要

洋楽を紹介する音楽番組で、毎週月曜日の午後9時半から開始されている30分番組。オープニングナンバー[注釈 2]やエンディングナンバー[注釈 3]に加え、リクエスト曲、特集、ビルボードのランキング、ライブレポートも番組で紹介。

番組冒頭では「カッコが良くて音楽に強いのが現代のヤング」というフレーズ[3][4]および放送回数から始まる。

AMラジオ局では珍しく、ラジオパーソナリティディスクジョッキーと称する。番組のオープニングテーマ曲にはヒューゴ・ウィンターハルター(英語: Hugo Winterhalter楽団によるイージーリスニング「Melancholy Serenade[1][注釈 4]」が使用されており、その途中に英語圏の男性による「Your Hit Parade」というタイトルコールが挿入されている。

出演者

現在の出演者

過去の出演者

歴史

初期

1956年(昭和31年)2月11日に開始[2][3]。1935年(昭和)4月20日に米国NBCで開始されたラジオ番組『Your Hit Parade(英語: Your Hit Parade』を由来としたラジオ番組の一つであり、同名の番組の中では文化放送で1955年(昭和30年)から放送されたラジオ番組『ユア・ヒット・パレード[注釈 7]に次ぎ日本で2番目に開始され、同名の番組の中では最も長寿番組である[注釈 8]

午後1時5分からの30分間[2]、希望に応じてヒットジャズの数々を放送する音楽番組として開始[2]。初回は「キング・ポーター・ストンプ(英語: King Porter Stomp」「シング・シング・シング」「君去りし後」「OTCHI-TCHOR-NI-YA」が放送され、ベニー・グッドマン楽団が演奏するジャズが主であった[2]。2回目の放送では、ベニー・グッドマン楽団レイ・アンソニー(英語: Ray Anthony楽団、グレン・ミラー楽団が演奏するジャズを放送。

2代目

1959年(昭和34年)秋から、新人アナウンサー横山欣司が担当[4][注釈 9]

「カッコが良くて音楽に強いのが現代のヤング」で始まる軽妙な語り口を番組で始め[3][6]、最新の洋楽情報や独自に集計した洋楽の人気順位などを独自の切り口で紹介し[4]、世界中のヒット曲をいち早く紹介する手法を実施[6]。自身を番組のディスクジョッキーと称し、選曲と構成まで1人で仕切る米国のディスクジョッキー様式を、鹿児島で確立[3][4]。「自宅にある50メートルプール」など大きなほら話も時折入り混ぜた、テンポリズムが良い楽しい口調で番組を進行[4]

横山が番組担当となった頃は、の時間帯での若者向けの番組としては、黎明期にあたる時代の番組でもあった[7]

横山は、レコード会社から送られてきたテスト盤のレコードを聴き、当時はまだほとんど知られていなかったビートルズに目を付け「これは凄い」といち早く紹介[5][8]。ビートルズのファンとなった横山が[7][注釈 10]ユアヒットパレードで最初に放送したビートルズの曲は、日本では1964年(昭和39年)[注釈 11]に発売された「プリーズ・プリーズ・ミー」であった[8]

日本では1966年(昭和41年)6月に発売された「ペイパーバック・ライター」も、日本国内ではこの番組で一番最初に放送するなど[4][5]、鹿児島県にはMBCラジオとNHKラジオしか無かった時代においてビートルズの曲を積極的に放送[8]。ビートルズの人気に火が付いた後は、毎週のランキングで10位までのほとんどを独占することもある状態となるほど[8]、1日に何十枚、何百枚とリクエストはがきが届き[8]、ビートルズ全盛時代の特集では、リクエストはがきが1日に568枚届き、過去最高を記録[3]。横山は「鹿児島にビートルズを広めた功労者」と鹿児島の熱烈なファンから言われるほどになる[8]

その一方、当時はビートルズを聴くと不良というレッテルを貼られた時代であり[8]、いつもリスナーのことを気にかける人柄であった横山は[4]、MBCを訪ねてきた中高生に「親に聴いたらいけないと言われる。どうしたらいいでしょう」と相談されたこともあった[8]

番組ではローリング・ストーンズ[注釈 12]の新曲なども放送[4]。番組の反応が全国ヒットチャートを動かし、1973年(昭和48年)に発売された「イエスタデイ・ワンス・モア」など、鹿児島発のヒット曲も生まれる[4]。MBC南日本放送から発行された『未来を拓く MBC35年のあゆみ』には「この番組から全国にヒットしていった曲は数知れず、その功績でワム!ノーランズボーイズ・タウン・ギャングボン・ジョヴィレイ・パーカー・ジュニアゴールドディスクも受けた」とも記載されている[3][注釈 13]

鹿児島県の学校では、クラスメイトのリクエストはがきが読まれると翌日はその話題でもちきりとなるほどの人気となり[4]、1960年代から1980年代における洋楽全般の伝道師として、当時の若者の絶大な支持を得る[4][6]。その影響は、若き長渕剛HOUND DOG鮫島秀樹など、後に音楽界で活躍する鹿児島県出身の芸能人[3]、横山のラジオ番組に影響を受けMBCラジオのディレクターになった高崎真由美[注釈 14]をはじめ、大勢の中高生がこの番組を聴いて育ち、心をつかまれたほどであった[4]

読まれたい一心で、目を引くようにと描かれた華やかなイラストで飾られたリクエストはがきが1日に何百通と届き、1969年(昭和44年)8月にはリクエストはがきの巡回展が催される[4]

ファンサービスにも積極的で[3]鹿児島県総合体育センター体育館などで行われたユアヒットパレードの公開生放送を始め[5]、様々な連動イベントも実施[4][5]観客の前で横山が喋りと曲を披露する企画は[5]、初めはステレオコンサートだったが[3][5][注釈 15]後にビデオコンサートも行われ[3][4][5][注釈 16]、ユアヒットパレード名物企画となる。

12時間ぶっ通しのステレオコンサート[3]鹿児島県医師会館でのビデオコンサート[4]、1983年(昭和58年)2月6日に鹿児島市民文化ホールこけら落としとして、三菱電機の直径1.6メートルある大型スピーカーを左右に配置しての「春一番コンサート」など[3][9]、レコードも安くはなかった時代の1960年前半から1980年頃まで通算16回以上行われ[3]、若者が詰めかけた[4]

1983年(昭和58年)、ユアヒットパレードにおいて1番組を27年間にわたりディスクジョッキーとして担当した功績から横山は、第9回アノンシスト賞で放送活動賞を受賞[3]

3代目以降

1985年(昭和60年)、横山の番組形式を踏襲しつつ、ディスクジョッキーは城光寺剛へと引き継がれる[4]

2000年(平成12年)3月6日、午後8時からの90分間の特別番組として、横山によるユアヒットパレードが1日限定で復活[4]。その頃の横山はニュースキャスターの道を歩んでおり、念願が叶ってMBCラジオのディレクターとなった高崎真由美も、横山と洋楽番組の仕事を一緒にすることは、ほとんど不可能だとあきらめていた頃だったが、横山によるユアヒットパレード復活の企画が持ち上がり、ディレクター担当を打診された高崎が即答で引き受けての復活であった[4]

2000年(平成12年)10月1日、ディスクジョッキーに新人MBCタレントスマイリー園田が就任。

2006年(平成18年)11月4日、MBCメディアホール[注釈 17]で、ステレオコンサート約25年ぶりに復活し、横山がディスクジョッキーを担当。

2010年(平成22年)1月中旬頃から3月まで、スマイリー園田が体調を崩し休養したため、シスタースマイリー[注釈 18]と名乗る代理人を立てる措置が執られた。2010年(平成22年)6月9日には、「ユアヒットパレード ロックの日スペシャル」を午後10時から1時間放送。

2014年(平成26年)4月12日、3千回突破記念スペシャル企画として番組に横山がゲスト出演[5]

2016年(平成28年)12月3日までは毎週土曜日の午後11時5分からの放送だったが、ニッポン放送の『中居正広のSome girl' SMAP』が翌月の12月10日から土曜日午後11時に編成される関係で、12月7日から毎週水曜日の午後9時半に移動し、2017年(平成29年)4月3日からは毎週月曜日の午後9時半に移動した。

脚注

注釈

出典

外部リンク