勢多型砲艦
勢多型砲艦(せたがたほうかん)は、日本海軍砲艦の艦級。同型艦4隻。
勢多型砲艦 | |
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1935年頃の「勢多」 | |
基本情報 | |
艦種 | 砲艦(河用) |
建造数 | 4隻 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 公表値:305ロングトン (310 t)[1] |
常備排水量 | 338ロングトン (343 t) |
満載排水量 | 400ロングトン (406 t)[2] |
全長 | 184 ft (56.08 m)[2] |
垂線間長 | 180 ft 0 in (54.86 m) |
最大幅 | 27 ft 0 in (8.23 m) |
深さ | 2.130 m[3][注釈 1] |
吃水 | 3 ft 4 in (1.02 m) |
主缶 | ロ号艦本式缶 2基 |
主機 | 直立3気筒3段レシプロ 2基 または直立2気筒2段レシプロ 2基[4] |
推進器 | 2軸 |
出力 | 2,100 hp (1,566 kW) |
速力 | 16.0ノット (29.6 km/h)[5] |
航続距離 | 10ノット - 1,750カイリ(堅田竣工時の値)[3] |
燃料 | 石炭:20ロングトン (20 t) 重油:74ロングトン (75 t) |
乗員 | 公表値:62名[1] |
兵装 | 40口径三年式8センチ砲 2門 留式7.7mm機銃 6挺 探照灯 1基 |
搭載艇 | 2隻 |
その他 | 船材:鋼 |
出典の無い値は[6]による「比良」の値。 |
計画
八八艦隊完成案 (大正9年度計画[4]) により建造された[7]。帝国議会に提出された説明書によると、300トンの小型砲艦を4隻建造、予算は1隻で328,350円で総額1,313,400円[8]。
当時、日本海軍の河用砲艦は「伏見」「隅田」「鳥羽」の3隻あったが十分な数ではなく[9]、一挙に4隻の建造となった[7]。設計に当たっては各河用砲艦の使用実績を参考にした[9]。従来の艦は低速で揚子江上流域の三峡の通過が困難だったため、勢多型では速力16ノットが求められた[9]。また航続距離の延長も要望された[9]。
艦型
「鳥羽」をベースに若干大型化し、速力を向上させた艦型になった[4]。
船体は、速力が向上したために艦首にブルワークを設置して乾舷を高くし、同所にフラットを設けた[9]。艦尾はスクエア・スターンとした[9]。
艤装は、上甲板上にハウスデッキを設け、中央部は機関室、機関室隔壁の前方は艦長室と士官室、後方は准士官、下士官の居住区とした[9]。ハウスデッキ上、前部に上構 (上部構造物) を更に設けて海図室、無線室とし、その上を操舵室とした[9]。また後方にも上構を設けて兵員室とした[9]。
機関
ボイラーはロ号艦本式混焼缶2基を装備した[10]。圧力15.5kg/cm2の飽和蒸気[10]。揚子江方面では石炭より重油の方が入手が容易であったため、後に重油専焼に改められたという[10]。また同方面の夏場には缶室の気温・湿度が著しく上昇するため、この時に通風機械を増設した[10]。
主機は直立3気筒3段レシプロ 2基[6]。また『日本海軍特務艦船史』(1997)では、直立式2気筒2段膨張レシプロ蒸気機械2基としている[4]。なお「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表」では3気筒2段レシプロで3軸の記載がある[11]が、3軸は間違い[注釈 2]。
推進は2軸で回転数350 rpm、直径1,727 mm、ピッチ1,829 mm[10]。舵 (3枚) の間の艦底にセレスを設けて推進器を置いた[9]。
兵装
1923年 (大正12年) 3月調べの「比良」の兵装は以下の通り[6] (計画または各艦の竣工時と推定される) 。
主要要目
表の値は主に「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」による「比良」の値[6] (計画値と思われる) 。その他の伝えられる数値は以下の通り。
艦型の変遷
1931年時の兵装は、40口径三年式8センチ高角砲 2門、留式機銃 6艇、探照灯 1基[5]。
上海事変 (1932年) 後に高角砲に防楯を装備[4]した他、13ミリ連装機銃1艇の装備した[12]。また艦橋構造は周囲に固定壁を設置、戦訓により防弾板が装着された[12]。
1938年時の兵装は、三年式8センチ高角砲 2門、保式13ミリ機銃 2艇、留式7.7mm機銃 6艇、一一式軽機銃 1艇、探照灯 1基[11]。
大戦中の「勢多」は煙突を低めて、通風筒の形状が変更されている[12]。1943年 (昭和18年) 夏の「保津」の機銃装備は、煙突後方の前部機銃座に7.7mm単装機銃2艇、後部機銃座に13ミリ連装機銃1基、操舵室上に13ミリ単装機銃1艇の装備が確認される[13]。
塗装
運用
製造は国内の播磨造船と三菱神戸が2隻ずつ担当し、中国へ分解輸送、現地で組み立てた。竣工時から排水量が計画より超過しており、その後も排水量増大による吃水の増加にあった[9]。
その他の使用実績は良好で、揚子江流域の警備艦の中堅として長年活動した[9]。各艦上海事変、日中戦争などに従軍し、太平洋戦争の末期に3隻が対空戦闘で被爆、大破した[4]。
同型艦
保津を除いた三隻は近江八景から名付けられている。
脚注
注釈
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- 防衛省防衛研究所
- 「軍艦比良触衝事件」『大正12年 公文備考 巻41 艦船21』、JACAR:C08050762200。
- レファレンスコード:C12070078300 海軍大臣達『2月』 (大正10年2月)
- 防衛省防衛研究所
- 甘利義之「第一次世界大戦以後における我海軍機関の進歩」『海軍造船技術概要』下巻、今日の話題社、1987年5月、1621-1769頁、ISBN 4-87565-205-4。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫/編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌『丸』編集部/編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8。
- Gardiner, Robert; Gray, Randal, ed (1985). Conway's All The World's Fighting Ships 1906-1921. London: Conway Maritime Press Ltd. ISBN 0-85177-245-5