千早 (通報艦)
千早(ちはや)は、日本海軍の水雷砲艦[3] (または通報艦[4]) 。
千早 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍造船廠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 水雷砲艦[3]、または通報艦[4] |
艦歴 | |
計画 | 第一期拡張計画[5] |
発注 | 1897年6月12日訓令[6] |
起工 | 1898年5月7日[4][7] |
進水 | 1900年5月26日[4] |
竣工 | 1901年9月9日[8] |
除籍 | 1928年9月1日 |
その後 | 海軍兵学校練習船[9] 1939年7月25日廃船 |
要目(計画) | |
排水量 | 1,250ロングトン (1,270 t)[10] または1,258.456ロングトン (1,279 t)[4] |
全長 | 87.700 m[10] |
垂線間長 | 83.800 m[10] |
幅 | 9.600 m[10] |
最大幅 | 1920年調:31 ft 7+7⁄16 in (9.638 m)[2] |
深さ | 5.470 m[10] |
吃水 | 平均:2.990 m[10] (前部:2.640 m、後部:3.340 m[4]) |
ボイラー | ノルマン式水管缶 4基[4] |
主機 | 直立3気筒3段レシプロ[2] |
推進 | 2軸[4] |
出力 | 強圧通風:6,000 hp (4,474 kW)[11] 自然通風:4,500 hp (3,356 kW)[11] |
速力 | 強圧通風:21ノット (39 km/h)[11] 自然通風:19ノット (35 km/h)[11] |
燃料 | 石炭庫容量:200ロングトン (203 t)[11] |
航続距離 | 大体要領:10ノット - 4,546カイリ[11] |
乗員 | 計画乗員:126名[4] (傭人3名を含む[12]) |
兵装 | 計画[4] 安式12センチ(4.7インチ)速射砲 2門 安式12ポンド(3インチ)速射砲 4門 安式14インチ (35.6 cm)発射管 5門 探照灯 2基 |
装甲 | 司令塔:51 mm[11] |
搭載艇 | 7.610m蒸気カッター1隻、7.920mカッター2隻、7.610mギグ1隻、4.260mディンギー (もしくは7.100m通船[13]) 1隻、7.320m (もしくは7.310m[13]) 救命ホエールボート1隻[11] |
艦名は名勝旧跡の名[14]で、金剛山中腹にあった「千早城」による[15]。片桐大自はその著書で、歌枕の「千早振る」も艦名の由来であろう、としている[16]。この名を持つ日本海軍の艦船としては運送船「千早号」に続いて2隻目[16]。
艦型
機関
ボイラーはノルマン式缶4基[17]、フランスのノルマン社で製造された[4]。蒸気圧力は215 psi (15.1 kg/cm2)[17]。
主機は横須賀で製造された[17]。気筒の直径は高圧27 in (686 mm)、中圧40+5⁄8 in (1,032 mm)、低圧60 in (1,524 mm)、行程は27 in (686 mm)[17]。
推進は2軸[4]、外回り、回転数は計画で220rpm[17]。
兵装
大体要領時の計画では以下の通り[11]。
主要要目
公試成績
『帝国海軍機関史』には回転数222.3rpm、出力6,016馬力の記述がある[17]。
艦歴
1895年 (明治28年) 11月25日、大体要領に基づき水雷砲艦の詳細設計を行うよう、横須賀にあて訓令が出された[19]。1897年 (明治30年) 6月12日に製造の訓令が出された[20]。この時点での船体・機関・備品・進水式の予算は明治30年度から明治33年度の4年間で合計816,488円だった[21]。同年10月18日付で第一号水雷砲艦は
1898年 (明治31年) 3月21日、日本海軍は軍艦と水雷艇の類別・等級を新たに制定し[22]、「千早」は通報艦に類別された[23]。5月7日に「千早」は横須賀海軍造船廠で起工[24]。1900年 (明治33年) 5月26日に進水式が行われた。進水式には明治天皇が行幸[25]、「千早」は午後2時30分に進水した[26]。「千早」の竣工は1901年 (明治34年) 3月31日までの予定だったが、購入した蒸気用鉛管が検査で不合格になり代品の納入が遅れるなどして、工事が約1カ月程度遅れた[27]。また6月に船体が破損し外板の交換するなどで更に竣工が遅れ[28]、結局「千早」の竣工は同年9月9日になった[8]。
日露戦争に際しては、旅順攻略作戦、蔚山沖海戦、日本海海戦等に参加。日本海海戦では第二戦隊に所属し、漂流する敵旗艦「Knaiz Suvarov」に魚雷を命中させた[1]。
1901年「軍艦千早同三笠ヘ勅諭下付セラル」の記録が残る[29]。
1912年 (大正元年) 8月28日、艦艇の類別・等級が変更され (通報艦の類別は廃止) [30]、「千早」は一等砲艦に類別が変更された[31]。
1913年 (大正2年) 3月まで、大修理(大改造)を施行した[2]。
第一次世界大戦では、1916年、南洋諸島警備に従事した。1918年から1923年にかけて、シベリア出兵に伴い沿海州沿岸の警備に従事した。
千早 | |
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基本情報 | |
艦種 | 類別:一等砲艦[2] |
母港 | 横須賀 (1920年時) [2] |
艦歴 | |
要目(1920年調[2]) | |
常備排水量 | 1,263ロングトン (1,283 t) |
垂線間長 | 272 ft 11+1⁄4 in (83.191 m) |
最大幅 | 31 ft 7+7⁄16 in (9.638 m) |
吃水 | 9 ft 10+5⁄32 in (3.001 m) |
燃料 | 石炭:344ロングトン (350 t) |
乗員 | 166名 |
兵装 | 安式12センチ砲 2門 安式8センチ砲 4門 麻式6.5mm機砲 1挺(警備時は2挺) 水上発射管 2門 探照灯 2基 |
搭載艇 | 6隻 |
1928年 (昭和3年) 5月から10月にかけて横須賀工廠で練習艦設備の工事を実施し、9月1日に除籍、艦艇類別等級表からも削除され[32]、雑役船に編入、船種を練習船とし海軍兵学校の所属となった[9]。1939年 (昭和14年) に練習船の任務を「阿多田」に引き継ぎ[33]、7月25日に廃船。船体は終戦まで呉港外の倉橋島大浦崎付近に残存していた[34]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 志賀直蔵 中佐:1901年2月14日 - 1902年8月20日死去
- 松村直臣 中佐:1902年8月22日 - 1903年7月7日
- 福井正義 中佐:1903年9月26日 - 1905年1月7日
- 石田一郎 中佐:1905年1月7日 - 5月8日
- 江口麟六 中佐:1905年5月8日 - 12月12日
- 築山清智 中佐:1905年12月12日 - 1906年4月1日
- 岩村団次郎 中佐:1907年2月28日 - 1908年2月20日
- 高木七太郎 中佐:1908年2月20日 - 12月10日
- 舟越楫四郎 中佐:1908年12月10日 - 1909年10月11日
- 片岡栄太郎 中佐:1909年10月11日 - 1910年3月19日
- 山岡豊一 中佐:1910年3月19日 - 12月1日
- 南里団一 中佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 井原頼一 中佐:1911年12月1日 - 1912年3月9日
- 石川長恒 中佐:1912年3月9日 - 12月1日
- 白石直介 中佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 伊集院兼誠 中佐:1913年12月1日 -
- 花房太郎 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 福田一郎 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 横地錠二 中佐:1918年2月12日 - 12月1日
- 原敢二郎 中佐:1918年12月1日 - 1919年6月4日
- 坂元貞二 中佐:1919年6月4日 - 11月3日
- 広沢恒 中佐:1919年11月3日[35] -
- 成沢美水 中佐:1920年12月1日[36] - 1921年7月25日[37]
- 今橋重良 中佐:1921年7月25日[37] -
- (兼)栗原祐治 中佐:1921年12月1日[38] - 1922年3月15日[39]
- 枝原百合一 中佐:1922年3月15日 - 11月20日
- (兼)小森吉助 中佐:1922年11月20日 - 12月1日
- 中原市介 中佐:1922年12月1日[40] - 1923年11月20日[41]
- 井上繁則 中佐:1923年11月20日[41] - 1924年12月1日[42]
- (兼)梅田文鹿 中佐:1924年12月1日[42] - 1925年1月15日[43]
脚注
出典
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 『公文備考別輯』
- 「千早製造の件(1)」『公文備考別輯 新艦製造書類 千早 宇治 明治28~36』、JACAR:C110814978000。
- 「千早製造の件(2)」『公文備考別輯 新艦製造書類 千早 宇治 明治28~36』、JACAR:C110814979000。
- 『海軍 (二復) 公報』
- 「9月(1)」『昭和3年 海軍公報 (部内限)』、JACAR:C12070318800。
- 防衛省防衛研究所
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』 <普及版>、潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 平賀譲デジタルアーカイブ
- 『Specifications for H. I. J. M. S. "Chihaya"』。ID:120030158 。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年12月。ISBN 4-584-17054-1。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 横須賀海軍工廠 編『横須賀海軍工廠史(1)』 明治百年史叢書 第329巻、原書房、1983年6月(原著1935年)。ISBN 4-562-01378-8。
- 『官報』