反魂丹
語源
「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)。
歴史
室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は3代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし、8代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った。
越中富山藩主・前田正甫が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫は1683年(天和3年)に万代家11代目・万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した。
1690年(元禄3年)、江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった[1]。
薬効・処方
- 過去
江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他20数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられる[2][3]。一例は以下のようなものである[4]。
なお、1874年(明治7年)の毒劇薬取締法施行、不良薬品取締罰則通達、1877年(明治10年)の毒劇薬取扱規則施行などを受け、ヒ素成分を含む雄黄が配合成分から削除され、その後変遷して現代の処方に至る[5]。
当時の反魂丹の薬効について、江戸期から明治期にかけての文献には以下のような記述がある[4]。
- 『新増補家伝預薬集』には「儒門事親に癇を治すとあり」と記されている。
- 『上池秘録』には「心痛、腹痛、胃管痛、胸膈痞塞、五噎、五膈、積聚、腹中満悶、吐瀉等の諸庄を治す」と記されている。
- 『袖珍医便』には「心痛、腹痛、食傷、痢病、泄瀉、積聚、霍乱、吐瀉、又小児の諸疳、驚悸、癲癇等の症を治す」と記されている。
- 反魂丹の包装等に記載された効能書の変遷。江戸~明治初期と見られるものには「食傷など一切の腹痛、霍乱など眩暈立ち眩み、小児かんむし、酒の酔い醒ましほか万病に用いる」とある。明治に入ると「腹痛・食あたり、癪痞」の記載のみとなった。
- 現代の反魂丹処方の例
- 池田屋安兵衛商店の処方(1日量):オウレン末(50mg)、センブリ末(50mg)、ショウキョウ末(30mg)、牛胆末(160mg)、ウルソデオキシコール酸(15mg:熊胆の主成分)[6]
- 丸三製薬の処方(1日量):アミノ安息香酸エチル(450mg)、オウバク末(450mg)、ロートエキス(60mg)、センブリ末(50mg)
現代における処方による薬効は、消化液および胆汁の分泌促進であり、胃もたれや食欲不振に対する効能がうたわれている。
その他
脚注
関連項目
- 反魂香 (落語) - 男が反魂香と間違えて反魂丹を買い、火にくべる噺。