山川朝信

山川 朝信(やまかわ とものぶ)は、安土桃山時代武将大名下野国山川[1]領主。

 
山川朝信
時代安土桃山時代
生誕不明
死没不明
官位民部少輔
主君結城晴朝秀康
氏族山川氏
朝貞
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略歴

山川氏は代々結城氏の重臣であり、朝信は結城晴朝に仕えた。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、豊臣秀吉に2万石の所領を安堵される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、結城秀康に従い上杉氏に備えた。しかし、慶長6年(1601年)8月、上杉氏と内通していたことが発覚して改易となった。同年、嫡男の山川菊松(朝貞・11歳)は結城秀康に従って越前に入国した。

その後は、晴朝の養子・秀康に仕えたという。嫡男の朝貞は、越前国吉田郡花谷(現福井県福井市北西部)1万7000石の封を得て重臣に列した。

脚注

参考文献

  • 茨城県史: 近世編p105

関連項目