巡洋戦艦

巡洋戦艦(じゅんようせんかん、: Battlecruiser[注 1]: Schlachtkreuzer)は、強力な攻撃力と高速性能を持つ大型の戦闘艦を指す[注 2]

巡洋艦の特徴である高速性能と運動性能、戦艦に匹敵する大口径砲による攻撃力を合わせもつ[3][注 3]。代償として戦艦に比べ防御力を若干犠牲とする設計としている[注 4]第二次世界大戦までは、戦艦とともに主力艦の扱いを受けた[注 5]

英名を直訳すると「戦闘巡洋艦」となる[7][注 6]。この艦種を初めて1908年に建造したイギリス海軍の定義においては、広義では巡洋艦と位置付けられており[9]、高速・運動性能と攻撃力を合わせもつことで、反撃を受けることなく敵の射程外から一方的に攻撃しようというコンセプトであった[注 7]

第一次世界大戦において、巡洋戦艦は有効性を示した[11][注 8]ユトランド沖海戦では主力部隊として活躍しつつも、一方では英国海軍艦は防御力の脆弱さから大きな損害を出した[3][注 9]

列強各国はこれらの戦訓を取り入れ[14]高速戦艦へ進化した[15][注 10][注 11]

概要

巡洋戦艦は、装甲巡洋艦Armored cruiser)を発展させた艦種であった[19][注 12]。速力を発揮するために、同時期の戦艦よりも長大な艦形となり[注 13]、大出力機関[21]と燃料貯蔵庫を有する[注 14]。同排水量の戦艦よりも建造費は嵩んだ[23]。後期の艦では同期に建造された戦艦よりも排水量が大きくなり、その傾向は一層強くなった。

一方、日本海軍では「戦艦的巡洋艦(バトルシップ・クルーザー)」として扱われた[注 15]。造艦面では、巡洋戦艦のコンセプトを先取りしたとも評される[25]筑波型[5][注 16]。運用面では多様な任務に従事すると共に[24]艦隊決戦において戦艦戦隊と行動を共にすることを前提としていた[6][注 17]。しかし1931年(昭和6年)には、日本海軍からは巡洋戦艦という艦種がなくなり戦艦に併合された[注 18][注 19]

呼称

イギリス海軍における艦種略号はBattle Cruiserの2文字をとって「BC」である。この名称を直訳すると戦闘巡洋艦となる[30]

アメリカ海軍は巡洋戦艦の艦種略号としてイギリスとは異なる「CC」を定めていたが、巡洋戦艦として完成した艦を保有したことが無いので「CC」をつけられた艦は存在しない[注 20]アラスカ級は大型巡洋艦 (Large Cruser) を略し、ただしCLは既に軽巡洋艦 (Light Cruser) に用いられていたためBigの「B」を後ろにつけて「CB」とされた。

日本海軍は巡洋戦艦の名称をもちいた[31]。1912年(大正元年)8月28日の艦艇類別等級の改訂により[32]、はじめて巡洋戦艦の名称が登場し、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)(筑波型2隻、鞍馬型2隻)が巡洋戦艦に類別変更された[19][注 21]

日本海軍の巡洋戦艦は「戦艦的な巡洋艦(バトルシップ・クルーザー)」という性格が強く[24]福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)は「しいて英訳するとCruser Battle Ship(クルーザー・バトルシップ[注 22]、巡洋艦の速力をもった戦艦)であろう」と表現している[34][25]。また八八艦隊天城型巡洋戦艦は、第一次世界大戦の戦訓を取り入れた高速戦艦 (Fast Battleship) であり、既存の巡洋戦艦と一線を画す[16]第一次世界大戦後の技術発展により巡洋戦艦と高速戦艦の区別があいまいになり[35]、1931年(昭和6年)6月1日をもって巡洋戦艦の等級は削除、金剛型巡洋戦艦は金剛型戦艦に改称された[注 23]

特徴と誕生

巡洋戦艦はイギリス海軍のジョン・アーバスノット・フィッシャー大将によって創造された艦種である。それは単に装甲巡洋艦の任務を継承するだけでなく、同大将が実現した戦艦ドレッドノートの艦隊に随伴するのにふさわしい偵察兵力として生まれた。

フィッシャー大将の考えた巡洋戦艦の任務は以下の5つで[37]、同等の巡洋戦艦とは戦わない前提だった[37]

  1. 主力艦隊のための純粋な偵察
  2. 軽艦艇を主体とした敵警戒網を突破しての強行偵察
  3. 敵戦艦の射程外においての敵弱小・中規模艦狩り[10]
  4. 遁走・退却する敵の追跡・撃破
  5. シーレーン防衛(北大西洋における戦略的機動を含む)[注 24]

各国の巡洋戦艦は下記の共通的特徴を持つ[37]

  1. 主砲は同時またはそれに近い計画の戦艦と同一型式
  2. 戦艦よりも数ノット優速
  3. 戦艦よりも軽装甲(フィッシャー卿の速力は最大の防御という主張による)[10]
  4. 局面によっては、戦艦としても運用できる[注 25]

日本海軍が八八艦隊で建造もしくは計画した天城型巡洋戦艦十三号型巡洋戦艦は、以下の特徴を持つ。

  1. 同計画の戦艦の火力と防御力を備え、かつ列強各国の新世代巡洋戦艦(フッドなど)と同等の速力を持つ。
  2. 書類上は「巡洋戦艦」と呼ばれるが、実態は同計画の戦艦(長門型、加賀型)よりも高性能の「高速戦艦」[17]

沿革

日清戦争黄海海戦の戦訓により、装甲巡洋艦 (Armored cruiser) の重要性が改めて認識された[注 26]日露戦争黄海海戦(1904年)と日本海海戦(1905年)では、日本海軍の有力な諸外国製(輸入)装甲巡洋艦8隻[注 27]がイギリス製の前弩級戦艦4隻[注 28]と行動を共にし、大きな戦果を挙げる[42][注 29]。日本海軍は装甲巡洋艦を主力艦隊に編入して海戦へ投入したが[注 30]、その攻撃力に不満をもった[5]。そこで戦艦の砲力と巡洋艦の速力を持った大型艦(代償として防御力は重視せず)を建造、巡洋戦艦の元祖たる筑波型装甲巡洋艦が誕生した[30][注 3]。同海戦で敗北したロシア帝国海軍も、戦訓を取り入れて基準排水量約17,000トンに達する大型装甲巡洋艦リューリクをイギリスのヴィッカース=アームストロング社で建造した(1905年9月建造開始、1909年7月竣工)。

イギリス海軍は、上記海戦での戦艦主砲の威力、また同時に中間砲の射弾観測の困難さを重要視し、中間砲を廃止して主砲口径を統一することにより、主砲門数にして従来の2倍以上(従来型4門に対して10門〈片舷8門〉)を持つ戦艦「ドレッドノート」を1906年に建造した[46][47]。いわゆる弩級戦艦の誕生と[48]建艦競争の勃発である[49]。またイギリスは日露戦争の戦訓から、少なくとも3ノットの優速があれば、不利な状況下でも危機を脱して態勢を立て直すことが出来ると認識した[50]。この考え方を装甲巡洋艦にも適用し、洋上で出会うあらゆる巡洋艦を撃滅し得る強力な超装甲巡洋艦が必要であると考え、従来型装甲巡洋艦はマイノーター級で打ち切りになった。1908年、ド級戦艦に匹敵する火力(30.5cm連装砲4基8門〈片舷6門〉)でありながら速力26ノット以上を発揮するインヴィンシブルが誕生した[51][52]

建造当初、インヴィンシブル級は装甲巡洋艦に分類されていたが、1912年[53]Battle Cruiserという新しい艦種名に分類されることとなった[34]。直訳すると「戦闘巡洋艦」になる[34]。日本海軍は同年8月28日に「巡洋戦艦」の名称で採用し、既存の筑波型(筑波、生駒)と鞍馬型(鞍馬、伊吹)が「巡洋戦艦」に艦種変更された[33]。同年11月21日には比叡が、翌年8月16日には金剛が巡洋戦艦に類別された[注 31]

初期の巡洋戦艦と戦艦の比較

艦種艦名排水量速力主砲舷側装甲
戦艦三笠15,200トン18ノット30.5cm砲04門223mm
装甲巡洋艦出雲09,773トン21ノット20.3cm砲04門178mm
装甲巡洋艦筑波13,750トン21ノット30.5cm砲04門178mm
弩級戦艦ドレッドノート18,110トン21ノット30.5cm砲10門279mm
巡洋戦艦インヴィンシブル17,373トン25ノット30.5cm砲08門152mm

巡洋戦艦の発達

最初期の「巡洋戦艦」的な軍艦の一つは、ロシア帝国海軍ペレスヴェート級戦艦(艦隊型装甲艦)であった[54]。対巡洋艦戦闘と通商破壊任務に対応できる「最大速力18ノットを発揮する高速戦艦」として就役したが[54]、技術発展により仮想敵国が保有する敷島型戦艦(18ノット発揮可能)に追いつかれてしまった[55]。この艦隊装甲艦は3隻とも日露戦争に参加し、バルチック艦隊所属の2番艦オスリャービャ日本海海戦で撃沈された[56]太平洋艦隊所属の1番艦と3番艦は黄海海戦で損傷しつつ生還したが[57]旅順攻囲戦により沈没したのち[58]、日本海軍に捕獲された(ペレスヴェートは戦艦相模、ポペーダは戦艦周防と改称)[59]

イギリス式巡洋戦艦の特色は、主砲こそ同世代の戦艦と同等の物を搭載したが、防御装甲を軽防御に留めた代償に、装甲巡洋艦を凌駕する高速性能を持っていたことである[10]。というよりも日露戦争で得られた戦訓から、装甲巡洋艦の砲力を戦艦並みに引き上げ、かつ装甲巡洋艦の速力を維持した"超装甲巡洋艦"が、巡洋戦艦の発祥である[5][60]。ゆえに英語表記ではBattlecruiser、直訳すれば戦闘巡洋艦と呼ばれるのである[34]。この考え方はフォークランド沖海戦でドイツ装甲巡洋艦に対して火力と速力の優位性により、見事なまでに達成された。

イギリス海軍において弩級戦艦の性能は順次拡大され、弩級戦艦から既存の主砲口径を凌駕する34センチ(13.5インチ)砲35.6センチ(14インチ)砲を持つ超弩級戦艦 (Super Dreadnoughts) へと発達するにつれて[注 32]、巡洋戦艦も超弩級巡洋戦艦へと拡大発展して行った[62]ライオン級巡洋戦艦は13.5インチ連装砲塔4基(合計8門)を搭載し、速力28-29ノットを発揮した[63]。だがライオン級の防御力は、装甲巡洋艦よりもやや強力な装甲を持つが格下の弩級戦艦や同格の巡洋戦艦の火力にも耐えられない物だった。さらに主砲口径を38.1cm連装砲3基6門に強化し、速力29ノット台を達成したレナウン級は、代償として防御能力はインヴィンシブル級の時代に逆戻りしてしまう程の軽防御であった。もっともこれは戦時緊急計画に基づく建造期間の短縮による制約を受けた物である。

しかし、ドイツ海軍もまた超ド級戦艦や超ド級巡洋戦艦を建造し始めたことに対応して、イギリス海軍は38.1連装砲4基8門を搭載し、速力25ノットを発揮するクイーン・エリザベス級戦艦を開発した[64]。クイーン・エリザベス級戦艦は、巡洋戦艦と戦艦をあわせたような「軽速戦艦」であり[注 6]、その速力は最初期の巡洋戦艦に匹敵した[63]

バルト海作戦向けに開発されたカレイジャス級巡洋戦艦3隻(カレイジャスグローリアス、フューリアス)は、軽巡洋戦艦と評すべき性能とコンセプトを持っていた[65][66]姉妹艦のうち、超大型軽巡洋艦フューリアスに至っては、空前の40口径45.7センチ(18インチ)単装砲2門を装備する予定だった[67]

第一次世界大戦中に計画・建造されたアドミラル級巡洋戦艦は、ユトランド海戦の戦訓により設計を変更する[68]。完成した「フッド」は、戦艦の火力と防御力を兼ね備えた上に、巡洋戦艦としての速力も維持していた[注 33]。すなわち、最初期の高速戦艦とも表すべき艦型であった[70]。このように巡洋戦艦は、ユトランド海戦を経て、結果的に高速戦艦へ発展していった[67]

「自艦の搭載する主砲弾の攻撃に耐えられるだけの装甲を施すのが戦艦のセオリーであるが[71]、それを満たさない艦が巡洋戦艦」という定義が広まったが、あくまで後づけの定義である。ただし、こういった後づけ定義が広まる以前は、ガングート級戦艦クイーン・エリザベス級戦艦など、防御力を妥協して速力を優先した艦も戦艦に分類されている。後づけの定義が広まった以降は、ドイツが戦艦として建造したシャルンホルスト級を、その「防御力の弱さ」を理由に英国は巡洋戦艦に分類している。日本海軍に至っては、フランスのダンケルク級戦艦を「巡洋戦艦」と評価している[72]

ドイツ帝国海軍における巡洋戦艦(装甲巡洋艦)の設計思想は、インヴィンシブル級の出現で大きく変更された[73]。ドイツ帝国海軍の巡洋戦艦は、最初から敵国巡洋戦艦との戦闘を考慮して設計されていたが、自国の大口径砲およびボイラー技術・大型艦用タービン主機の製造能力の遅れなどの要因から、イギリスの同種艦と比べてコンセプトは若干異なった。ドイツの巡洋戦艦の特色は、同時期建造の戦艦よりひとクラス小口径の砲を選択する反面、防御能力は自国の装甲巡洋艦以上でむしろ戦艦に次ぐ装甲厚を持っていた(ドイツ巡洋戦艦の各部装甲の厚みはイギリス巡洋戦艦を上回り、イギリス戦艦の装甲厚に匹敵していた)[74]。これにより、イギリス巡洋戦艦と正面切って撃ち合って、敵艦からの被弾に耐えつつ、敵艦を確実に撃沈し得る砲力を備えるに至り、この考え方はユトランド沖海戦では一定の成果を証明した。しかし戦艦との砲戦では早期に戦闘力を失うなど限界もまた露呈し、また巡洋戦艦本来の特徴であるはずの航続力・長期航海のための居住性に関してはイギリス巡洋戦艦に劣っていた。なおドイツ帝国海軍においては、巡洋戦艦は特に新たな類別等級を設けることなく、従来からある「大型巡洋艦(Großer Kreuzer)」にそのまま分類された。これは、リスク論理に基づく国家予算上に制定された法律である艦隊法によるもので、ドイツ海軍の大型巡洋艦とは他国海軍でいう装甲巡洋艦と巡洋戦艦を含む艦種名である。

また、イギリスのライオン級を元に設計されたのが、日本海軍の装甲巡洋艦金剛」である[75]。1番艦「金剛」(伊号装甲巡洋艦)は技術導入のため英国ヴィッカース社で建造された[76]。その姉妹艦3隻は日本国内で建造され、横須賀海軍工廠で「比叡」(卯号巡洋艦)が、神戸川崎造船所で「榛名」が、三菱長崎造船所で「霧島」が建造された[注 34]。なおヴィッカース社で金剛型装甲巡洋艦の設計を担当したジョージ・サーストン英語版によれば、金剛型はオスマン帝国のために建造中だったレシャディエ級戦艦英語版 (Reşadiye sınıfı zırhlı) レシャド5世を再設計した艦型である[注 35]。主砲として、従来のイギリス弩級戦艦や巡洋戦艦はもちろん、当時の日本海軍主力艦(薩摩型戦艦河内型戦艦)も装備していない14インチ(35.6センチ)砲を採用した[60]。金剛型の設計経験をもとに、英海軍はライオン級4番艦として準備されていた「タイガー」を金剛型をベースに設計を変更し別クラスとして建造した[要出典]

巡洋戦艦は、強力な砲力を持ち高速力を有するゆえに、戦艦よりも使いやすい艦種として活躍する機会が多かった[12]

第一次世界大戦での戦い

濛々たる黒煙をあげて爆沈したクイーン・メリー。

第一次世界大戦で幾度か生起した海戦により、装甲巡洋艦防護巡洋艦が完全に時代遅れになったこと、巡洋戦艦の有効性と弱点が判明した[12][79]

  • ドッガー・バンク海戦(1915年1月24日)[83]:英独の巡洋戦艦同士が戦った海戦[84]。英国は巡洋戦艦5隻、ドイツ側は巡洋戦艦3隻と装甲巡洋艦1隻が対戦し、防御力に劣るドイツの装甲巡洋艦「ブリュッヒャー」がイギリス側に撃沈された[82]

この2回の戦闘で、巡洋戦艦の有用性と装甲巡洋艦の時代遅れが明らかになった[12]

装甲巡洋艦には圧勝したイギリス巡洋戦艦だが、弩級戦艦クラスの火力(12インチ砲または11インチ砲)に留まるドイツ巡洋戦艦の砲撃に対してすら防御力が不十分なことから、各艦は重大な損害を受けた。特にイギリスの巡洋戦艦3隻(インヴィンシブルインディファティガブルクイーン・メリー)は、ドイツ巡洋戦艦の砲撃で主砲塔などバイタルパートの装甲を貫徹され、火薬庫が誘爆して轟沈した[13][注 36]。ドイツの巡洋戦艦はイギリスの同種艦よりも強靭な防御力を誇り、多数の命中弾を受けても多くの艦が耐え抜いてドイツ艦の堅牢さを証明した[89]。一方でドイツの巡洋戦艦「リュッツオウ」は、被弾の累積による浸水の増加で行動力を喪失し、最終的に自沈した[13]

第一次大戦後の状況

ユトランド沖海戦では、イギリス式設計の防御力を軽視した巡洋戦艦が、同等以上の速力を持つ敵主力艦と会敵した場合には危険極まりないことが判明した[10]。同時に、従来の戦艦の速力不足も露呈した[90]。すなわち新世代に求められる主力艦が「『巡洋戦艦の速力』と『戦艦の火力と防御力』を併せ持つ高速戦艦」であることが明確になった[17][注 11]

そこで建造中だったイギリス海軍の「フッド」や、設計中(日本の八八艦隊)の天城型巡洋戦艦は大幅な改設計が行われた[注 37]

ユトランド海戦の戦訓を取り入れた巡洋戦艦は大火力・重防御・高速力を実現するため大型化し[92]、排水量4万~5万トン、主砲40㎝~46㎝という高速戦艦に進化した[16]。イギリス海軍のG3型巡洋戦艦は、16インチ45口径砲三連装砲塔3基9門、排水量約48,500トン、速力約32ノットであった。日本海軍の十三号型巡洋戦艦は、排水量47,500トン、18インチ45口径連装砲塔2基8門、速力約30ノットであった[18]

日本海軍とイギリス海軍の巡洋戦艦が事実上「高速戦艦」となった一方で、アメリカ海軍はダニエルズ・プランによりレキシントン級巡洋戦艦巡洋戦艦隊)とサウスダコタ級戦艦戦闘艦隊)の両方を整備することにした[注 24]。列強各国間で建艦競争がはじまりかけたとき、アメリカの提案によりワシントン会議が開催される[94][注 38]。ワシントン軍縮条約の締結により海軍休日時代が訪れ[96]、大艦巨砲主義と建艦競争は一段落する[注 33]。高速戦艦の時代は先送りされた[97]

また第一次大戦後に残った各国の巡洋戦艦は、軍縮条約の制限下で、戦訓による防御力強化の改装が行われた[60][98]。特に金剛型巡洋戦艦は、第一次改装によって甲板防御と水中防御が強化された代償として3,000トンも重くなり、速度が27.5ノットから25ノット程度まで低下した[99]。また近代化改装後の扶桑型戦艦伊勢型戦艦は、金剛型と同等の25ノットを発揮するようになった。さらに新世代の長門型戦艦も25ノットを発揮可能であり[100]、巡洋戦艦と戦艦の区別があいまいになった[101]。そこで日本海軍は1931年(昭和6年)6月1日付で巡洋戦艦の類別を廃止し、戦艦で統一した[36]。しかし金剛型は、既存の日本戦艦に比べれば弱防御のままであり、低下したとはいえ速度は従来のドイツ巡洋戦艦並みである。この後、宇垣纏少将などの意見もあり[102]、第二次改装で機関出力を2倍に強化し、速力30ノットの高速戦艦[注 39]に生まれ変わった[103]。金剛型戦艦(改装榛名型戦艦)はアメリカやイギリスの大型巡洋艦と交戦することを企図していたが艦齢を重ねており、日本海軍は超甲型巡洋艦の建造計画を進めた[104]⑤計画⑥計画[105]

イギリス海軍のレナウン級「レパルス」と「レナウン」は、第一次改装(舷側装甲が152mm→229mmに増強)が実施され防御力が強化された。更にドイツの海軍増強に対応するため、新戦艦の技術を用いた第二次改装が計画されたが、「レナウン」の改装後に第二次世界大戦が勃発したため、「レパルス」は改装する機会を失い、そのまま実戦に投入された。艦歴が比較的若く、基本性能が優秀であった「フッド」は、大規模近代化改装どころか軽度の改装すら引き伸ばされ続けた[53]ために対空火器の強化程度で実戦投入された。イギリス海軍の巡洋戦艦は、ドイツ海軍のドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)の天敵であった[106]

第二次世界大戦での戦い

第二次世界大戦には日英あわせて7隻の巡洋戦艦+元巡洋戦艦と[注 40]、日本海軍や諸外国から巡洋戦艦と評されていたシャルンホルスト級[107]2隻やダンケルク級[72]2隻が参加したが、終戦まで生き残ったのは英国のレナウン(1948年に売却)だけであった。なお最後まで在籍していた巡洋戦艦は、トルコヤウズ(元はドイツ帝国海軍モルトケ級巡洋戦艦「ゲーベン」[108]、1912年7月就役、1914年8月オスマン帝国譲渡[109]である。ヤウズは1971年に売却された。

爆沈するフッド。
手前の戦艦は「プリンス・オブ・ウェールズ

各艦の最期は次のとおり。

各国の巡洋戦艦

数字は完成年、完成時の排水量、速力、主砲、舷側装甲厚さ

イギリス

巡洋戦艦を世界に先駆けて建造しており、戦艦並みの砲力、高速と引き換えの弱防御という、俗に言われる巡洋戦艦の定義を確立した。しかし個艦を見ると防御力は一律でなく、戦艦並みか戦艦に近い防御力を備えた艦も存在する。

ドイツ帝国

厳密にはドイツ帝国海軍に巡洋戦艦という艦種は無く、第一次世界大戦までは装甲巡洋艦を含めて、全て「大型巡洋艦」に分類されている。
ナチス・ドイツ権力掌握後に建造されたシャルンホルスト級は、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) において「装甲艦」に分類されている[118]。同級を巡洋戦艦に分類するのは他国からの評価による[107]

大日本帝国

筑波型と鞍馬型は1912年以前の命名であり、当初は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別された[注 42][注 43]ジェーン海軍年鑑は当初の類別を使用した。1912年(大正元年)8月28日付で巡洋戦艦が新設された頃には[33]、速度性能は凡庸なものになっていた。
金剛型の場合、発注時の金剛は「伊号装甲巡洋艦」、比叡は「卯号装甲巡洋艦」、榛名は「第二号装甲巡洋艦」、霧島は「第三号装甲巡洋艦」であった[75]。なお命名時の金剛は「伊号巡洋艦」だったが[注 44]、巡洋戦艦の新設により比叡は「卯号巡洋戦艦」[注 45]、榛名と霧島も同様に「巡洋戦艦」となっていた[124][125]
艦艇類別等級への登録は、金剛より比叡の方が早かった[126]。1926年(大正15年)11月29日付の艦艇類別等級の改訂により初めて「金剛型巡洋戦艦」が新設され、「金剛、比叡、榛名、霧島」となった[注 46]
ワシントン海軍軍縮条約で筑波型の生駒と鞍馬型2隻が除籍解体され[注 47]、金剛型が第一次世界大戦後の改修で装甲を戦艦並みとし速度も低下、さらに扶桑型戦艦や伊勢型戦艦の速力向上により、戦艦と巡洋戦艦の区別があいまいになる[101]。1931年(昭和6年)6月1日付で巡洋戦艦の類別は廃止され、金剛型は戦艦に類別変更された[36]。なお金剛型は第二次改装で速度性能を30ノットに向上させた[35]。このことにより非公式ながら高速戦艦と呼ばれた[103]

各国の未成巡洋戦艦

完成艦のないクラスのみを列挙。国名アルファベット順。数字は1番艦起工年、完成時の予定排水量、予定速力、主砲、舷側装甲厚さ

ドイツ帝国(第一次世界大戦の敗北により建造中止)

  • マッケンゼン級(1915年、31,000t、27ノット、35.6cm砲8門、300mm)
    • マッケンゼン、グラーフ・シュペー、プリンツ・アイテル・フリードリヒ、フュルスト・ビスマルク
  • ヨルク代艦級(1916年、33,500t、27.3ノット、38.1cm砲8門、300mm)
    • ヨルク代艦、グナイゼナウ代艦、シャルンホルスト代艦(ヨルク代艦のみ起工)

ドイツ国(第二次世界大戦勃発で計画中止)

大日本帝国ワシントン条約により廃棄)

オランダ王国(1940年5月のドイツ侵攻オランダの敗北および占領により建造中止)

イギリスワシントン条約により建造中止)

アメリカ合衆国ワシントン条約により廃棄)

  • レキシントン級(1920年、43,500t、33.3ノット、40.6cm砲8門、197mm)
    • レキシントン(空母として完成)、コンステレーション、サラトガ(空母として完成)、レンジャー、コンスティチューション、ユナイテッド・ステーツ

ロシア帝国 ソビエト連邦ロシア革命のため中止)

戦間期から第二次世界大戦終結まで

第一次大戦終了後から第二次世界大戦までは、ワシントン軍縮条約の制約と経済恐慌の影響で、大艦巨砲主義は一時中断となった[14]。この時期にドイツ(ヴァイマル共和政)がヴェルサイユ条約の枠内で建造したドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)は[134]、公称基準排水量1万トン(実際は1万2,000トン)でありながら前大戦時で巡洋戦艦に多用された28cm砲を持ち、各国の戦艦よりも高速の26-28ノットを発揮した[135][136]。ポケット戦艦の登場は[72]、世界に衝撃を与えた[137]。このクラスに対してイギリスは巡洋戦艦で対抗可能であったが[106]、巡洋戦艦を持たないフランスはこれに対抗するため、既存の戦艦よりも高速なダンケルク級戦艦を建造した[138]。主砲の33cm砲は、新型の長砲身砲であり、重量級砲弾と相まって、イギリスの38.1cm砲に匹敵する攻撃力を持っていた。また集中防御方式による堅牢な防御は、メルセルケビール海戦において能力が実証された。こうした艦は、防御力と高速性能を重視し主砲口径をやや小さなものを選択するという意味で、第一次世界におけるドイツの巡洋戦艦に類似する性格のクラスであった。日本海軍はダンケルク級を「巡洋戦艦」と評している[72]

ヒトラーを新首相に迎えたドイツは、フランスのダンケルク級戦艦に対抗する必要に迫られた[139]。1934年計画で建造が決まったドッチェラント級装甲艦(ポケット戦艦)2隻の設計を大幅に変更し、シャルンホルスト級戦艦を完成させる[119][注 50]。ただしヴェルサイユ条約および英独海軍協定による制約と政治的配慮から、28cm砲を搭載せざるを得なかった[139]。また艦体の設計開発においても立ち遅れ、近距離砲戦用の垂直装甲の防御性能は数値上では一応自艦の28cm主砲弾に耐えられるものを持つが、現実には主装甲の上下幅が非常に狭く防御範囲が限定されるために劣っており、また遠距離砲戦や爆撃に対抗するための水平防御はさらに劣るという、いささか前時代的なコンセプトのクラスとなってしまった。本級は、いわゆる「防御力を備えた巡洋戦艦」といえる[107]

極東植民地を保有するオランダ王国は、満州事変支那事変など覇権主義的な外交政策をとる大日本帝国に悩まされていた[141]オランダ領東インドに配備されていたオランダ海軍の主力は、小数の海防戦艦軽巡洋艦であった[注 51]。そこでオランダは35,000トン級や25,000トン級大型戦闘艦を検討し[143]ナチス・ドイツに依頼して同海軍シャルンホルスト級戦艦を基本に1940年度巡洋戦艦試案がまとめられた。第二次世界大戦勃発後も西部戦線においては1939年9月から1940年4月にかけてまやかし戦争と呼ばれる比較的平穏な時期が続いたが、1940年5月上旬以降のドイツ西部戦線侵攻オランダは敗北し、国土を占領される。オランダ巡洋戦艦の建造も中止された。

実際に建造された最後の巡洋戦艦と呼べる艦は、アメリカ海軍が保有したアラスカ級大型巡洋艦である。アラスカ級はドイツのシャルンホルスト級と日本の新大型巡洋艦計画(アメリカは情報分析によりこの計画を察知したとされるが完全な誤報で日本にそのような建艦計画はなかった)[注 52][注 53]に対抗するための計画艦であり、主砲は30.5cmだが重量級砲弾を50口径の長砲身砲で撃ち出すことにより遠距離での貫通能力を高めた。もちろんアラスカ級はその主砲口径・装甲厚・速力を他国の巡洋戦艦と比較して類似点が多いことをもって巡洋戦艦と「呼べる」存在であったものであって[注 54]、アメリカ海軍自身はあくまでもアラスカ級の種別を「大型巡洋艦」としており「巡洋戦艦」とはしていなかった。なお、アラスカ級は艦隊護衛の防空任務にのみ投入されて水上戦闘は行っておらず、「巡洋『戦艦』」としての実戦能力は不明である。

最終的に、防御力を改装で強化した巡洋戦艦と、速力を設計段階から重視した新世代の戦艦とは、性能的に大差ない存在となった[62]。ワシントン軍縮条約明け(日本の脱退)にともない、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級、ドイツのビスマルク級、および、フランスのリシュリュー級と、30ノット&長砲身15インチ砲搭載の4万(名目は、3.5万)トンクラスの建造競争が続いた[145]。最後に、その集大成といえるアメリカ海軍のアイオワ級戦艦が建造された[146]。軍事評論家でジャーナリストの伊藤正徳は、1941年11月に新聞の論説で「海軍拡張法によって建造されるアイオワ級巡洋戦艦4隻は、日本海軍の金剛型巡洋戦艦を制圧するための艦級である[注 55]両洋艦隊法によるハワイ級巡洋戦艦6隻とアイオワ級巡戦4隻の機動部隊により、日本の巡洋戦艦部隊を撃滅しつつシーレーン破壊する計画」と主張している[注 54]

アイオワ級戦艦に対しては、火力に見合った防御を有していない艦、戦艦でありながら巡洋戦艦的性格が残っている艦という評もある。しかし、交戦国の戦艦が戦没して消滅し、アイオワ級の防御は検証されることなく終わった。また戦艦そのものが、独力で航空打撃力に抗しうるものではなく、コストパフォーマンスと運用の悪さからも時代遅れの存在と化し、順次消えていった。

戦後

旧ソ連海軍キーロフ級ミサイル巡洋艦は、排水量では出現した当初の巡洋戦艦を上回る巨艦であり、ジェーン海軍年鑑において巡洋戦艦に分類されている。しかしこれは現代的なミサイル巡洋艦が大型化したものであって、上記で紹介された第二次世界大戦までの巡洋戦艦とは全く性格が異なる艦である。ただし現代の水上戦闘艦としては珍しく装甲防御を施しており、その意味では巡洋戦艦的と言える。

脚注

出典

参考図書

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。 
  • 世界の艦船 1984年12月号 特集 巡洋戦艦史のまとめ 海人社
  • 世界の艦船 1999年6月号 特集 巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる 海人社
  • 世界の艦船 1987年3月増刊号 近代戦艦史 海人社
  • 世界の艦船 1986年1月増刊号 近代巡洋艦史 海人社
  • 世界の艦船 1988年3月増刊号 日本戦艦史 海人社
  • リチャード・ハンブル 著、実松譲 訳『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • ロバート・フォーチェック〔著〕、ハワード・ジェラード、イアン・パルマ―、トニー・ブライアン〔カラー・イラスト〕『連合艦隊vsバルチック艦隊 日本海海戦1905 RUSSIAN BATTLESHIP VS JAPANESE BATTLESHIP Yellow Sea 1905』平田光夫〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ“対決”シリーズ5 Osprey DUEL Engage the Enemy〉、2010年1月。ISBN 978-4-499-23011-7 
  • 福井静夫 著「第二部 日本の戦艦」、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9 
  • 三野正洋、古清水正夫『死闘の海 第一次世界大戦海戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年7月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2425-4 
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    • 『7年8月24日 英国艦艇視察記事 戦艦及巡洋戦艦に就いて、軽装巡洋艦及駆逐艦に就いて対潜水艇装置及潜水艇攻撃または掃海の目的を以て出現せる艦艇に就いて(1)/大正3年 外国駐在員報告 巻5(防衛省防衛研究所)』。Ref.C10100772500。 
    • 『7年8月24日 英国艦艇視察記事 戦艦及巡洋戦艦に就いて、軽装巡洋艦及駆逐艦に就いて対潜水艇装置及潜水艇攻撃または掃海の目的を以て出現せる艦艇に就いて(2)/大正3年 外国駐在員報告 巻5(防衛省防衛研究所)』。Ref.C10100772600。 
    • 『7年8月24日 英国艦艇視察記事 戦艦及巡洋戦艦に就いて、軽装巡洋艦及駆逐艦に就いて対潜水艇装置及潜水艇攻撃または掃海の目的を以て出現せる艦艇に就いて(3)/大正3年 外国駐在員報告 巻5(防衛省防衛研究所)』。Ref.C10100772700。 

関連項目