左丘明

左丘明(さきゅうめい)は、春秋時代の人。生没年不詳。『論語』に登場する。伝統的に『春秋左氏伝』および『国語』の作者とされているが、『春秋左氏伝』の偽作説とも関連し、その人物には不明の点が多い。

名前

「左丘明」という名前がどのように区切られるかは、諸説ある。

  • 「左」が氏で、「丘明」を名とする。もっとも伝統的な説である[1]
  • 「左丘」が氏で、「明」を名とする[2]
  • 「左」は官職(左史)で、「丘」が氏、「明」を名とする[3]

「左邱明」と書いてあることもあるが、これは孔子の名の「丘」を避諱したものである[4]

出身

伝統的にの人とされる[5]

魏書』地形志には、兗州東平郡富城県に左丘明の冢があると記す。現在の山東省泰安市肥城市にあたる。

時代

論語』公冶長篇で孔子が左丘明をほめているため、孔子と同時代かそれより前の人とわかる。

『春秋左氏伝』の作者については、劉向『別録』に、左丘明が『左伝』を曽申(曽子の子)に伝え、曽申が呉起に伝えたとしている[6]。このことから孔子と同時代かそれより少し後の人とわかる。

失明説

史記』太史公自序によると、左丘明は目が見えなかったという[7]

春秋左氏伝

『史記』十二諸侯年表に左丘明が『左氏春秋』を作ったことを述べ[5]、『漢書』司馬遷伝も同様である[8]。ただし、『春秋左氏伝』の左氏が左丘明でないとする説も以来存在する[9]。また、司馬遷のいう『左氏春秋』が現在の『春秋左氏伝』と同一の書であったかどうかは、劉逢禄以来の議論がある。

国語

『史記』太史公自序[7]や『漢書』司馬遷伝[8]では、左丘明を『国語』の作者でもあるとしている。

子孫

朝鮮氏族済州左氏の始祖である左亨蘇は、左丘明の子孫[10]

脚注