本多正貫

江戸時代前期の大身旗本。長坂重吉の長男。従五位下、豊前守

本多 正貫(ほんだ まさつら)は、江戸時代前期の大身旗本

 
本多正貫
時代江戸時代前期
生誕文禄2年(1593年
死没寛文2年2月1日1672年2月29日
別名源十郎(通称)
戒名樹心院休山
墓所京都府京都市東山区泉涌寺山内町の泉涌寺内法音院
官位従五位下、豊前
幕府江戸幕府
氏族長坂氏→本多氏
父母父:長坂重吉、母:本多正重の娘
養父:本多正重
正室:本多政澄の娘
正直、娘(戸田重種室)、正綱
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生涯

文禄2年(1593年)、長坂重吉の長男として生まれる。下総舟戸藩主・本多正重の長男正氏秀次事件で自害し、次男の正包も早世していたため、生母が正重の娘だった正貫が正重の養子として迎えられ、元和3年(1617年)の正重の死去により家督を継いだ。しかし、幕府によって1万石の所領を8000石に削減されたため、正貫は旗本となった。なお、削減、減封は正重の遺言とも言われている。

寛永11年(1634年)に書院番頭に任じられ、寛永19年(1642年)には大番頭に任じられた。寛文4年(1664年)に嫡男の正直に家督を譲って隠居した。

寛文12年(1672年)2月1日に死去。享年80。