東伏見宮
東伏見宮(ひがしふしみのみや)は、明治時代、小松宮彰仁親王(旧・仁和寺宮嘉彰親王)が一時、称していた宮号。東伏見宮家は、小松宮の養子・世嗣となっていた依仁(よりひと)親王(伏見宮邦家親王の第17王子で小松宮の弟)が新たに創立した宮家の名であり、伏見宮家の分家。依仁親王には継嗣が無く宮家としては一代で断絶したが、久邇宮邦彦王第3王子で臣籍降下して華族となった東伏見邦英伯爵により同宮家の祭祀が継承された(東伏見家 (伯爵家)参照)。ただし、それとは別に東伏見宮家自体は依仁親王妃周子が1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱するまで存続している。
東伏見宮家 | |
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家祖 | 東伏見宮依仁親王 (伏見宮邦家親王の第17王子) |
種別 | 皇族(宮家) |
出身地 | 京都(山城国) |
主な根拠地 | 東京府豊多摩郡渋谷町(現:東京都渋谷区東) 神奈川県横浜市磯子区磯子町 (現:磯子区磯子) |
著名な人物 | 依仁親王 |
支流、分家 | 東伏見家 (伯爵家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
東伏見宮依仁親王
初代依仁親王は、1867年(慶応3年)に誕生。幼名を定麿王という。1869年(明治2年)に長兄山階宮晃親王の養子となり、山階宮定麿王を名乗ったが、明治6年(1873年)に晃親王に実子菊麿王が誕生したことで、依仁親王は山階宮家を離別することになり[1]、1885年(明治18年)に同じく兄の小松宮彰仁親王の後嗣となる。翌年、親王宣下により小松宮依仁親王となった。1898年、岩倉周子と結婚。1903年(明治36年)に、小松宮彰仁親王が薨去する際に依仁親王の継嗣を停止したため、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設した。この宮号は小松宮に改称する前に依仁親王が一時期称していたものだった[1]。
軍歴としては、1884年(明治17年)に英国留学。さらに、1890年(明治23年)フランス・ブレスト海軍兵学校を卒業し、その後、横須賀鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官を歴任し、海軍大将に上る。また、英国ジョージ5世の戴冠式に参列し、大日本水産会総裁、日仏協会名誉総裁などを歴任。1922年(大正11年)、56歳で薨去。元帥大勲位菊花章頚飾を追号された。
依仁親王には周子妃との間に子供がなかったため、東伏見宮家は彼一代で絶家したが、依仁親王は生前東伏見宮家断絶後に備えて久邇宮邦彦王の第3王子邦英王を9歳まで養育していた[1]。昭和6年に臣籍降下した彼によって東伏見宮家の祭祀を継承した東伏見家 (伯爵家)が創設されることになる[2]。
東伏見邦英伯爵
系図
(20/23)伏見宮邦家親王 | (1)竹田宮恒久王 | (2)竹田宮恒徳王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)北白川宮能久親王 | (3)北白川宮成久王 | (4)北白川宮永久王 | (5)北白川宮道久王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)北白川宮智成親王 | (25)伏見宮博恭王 | 博義王 | (26)伏見宮博明王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)伏見宮貞愛親王 | 邦芳王 | (4)華頂宮博忠王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)閑院宮載仁親王 | (7)閑院宮春仁王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東伏見宮依仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
依仁親王妃周子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
参考文献
- 鈴木博之、和田久士『皇室の邸宅 御用邸・離宮・宮家の本邸・別邸・庭園…全国25カ所』JTBパブリッシング、2006年。ISBN 978-4533062483。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、東伏見宮に関するカテゴリがあります。
- 東伏見宮家御家族の写真アルバム (日本語)