谷田部藩

谷田部藩(やたべはん)は、常陸国筑波郡谷田部の谷田部陣屋(現在の茨城県つくば市谷田部)に藩庁を置いた大坂の陣の後、下野国茂木藩1万石の大名であった細川興元が常陸国で6200石の加増を受け、居所を新領地の谷田部に移転したことにより成立した。細川家は肥後熊本藩主家の分家であり、関東に数少ない外様大名の一つとして幕末・明治維新を迎えた。茂木は藩領の飛び地となっていたが、1871年に藩庁が茂木に移された。こうした事情から、谷田部藩と茂木藩は同一の藩の別名[1][2]という理解もされる。

藩史

関連地図(茨城県周辺)[注釈 1]

藩祖は、細川幽斎の次男・興元である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、兄・忠興と不仲になって出奔する。慶長15年(1610年)7月27日、将軍徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木1万石を与えられて諸侯に列した(茂木藩の立藩)。真偽のほどは定かでないが、幕府は当初豊後国鶴崎10万石[3]を検討したものの、忠興の「興元は10万石の器にあらず」との反対によってわずか1万石に留まったため、細川宗家と不仲になったと伝えられているが、第2代藩主興昌の代には、熊本藩主の息子が鷹狩りの際に谷田部を訪れて歓待されている。

その後、興元は大坂の陣における戦功により、元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡河内郡6200石を加増され、陣屋を谷田部に移した。土地は痩せて凶作が多かったため財政難が慢性化し、頻繁に援助した熊本藩では貸金は返ってこないものと諦めていた。

なお、藩庁を茂木から谷田部に移転して以降も茂木の陣屋は温存され、藩主および藩主一族が住することもあり、『寛政重修諸家譜』の7代藩主・興徳の記載に「茂木あるいは谷田部に住し」とあり、廃嫡となった興誠も茂木にて死去したとある。天保11年(1840年)の藩士は、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の計148名。この他、奥女中や足軽、門番人その他となっている。

第3代藩主・興隆の代である万治3年(1660年)、検地が行なわれて藩政の基礎は固められたが、享保年間から、大風雨による洪水や飢饉、旱魃や熱病と天災による凶作が続き、さらに江戸藩邸が焼失したこともあって財政は急速に悪化する。天保5年(1834年)の負債額は、12万7000両、米2600俵という巨額にのぼっている。生産量も激減し、享保8年には1万3000人を超えた人口も、天保6年(1835年)には6702人と半減し、耕地の4割が荒地と化した。

第4代藩主の興栄は相続者が決まらず、遠縁の公家の姉小路家から興誠を婿養子に迎えた。大名家に養子が入ることはよくあることだが、公家から養子を迎える例はほとんど無く、貴重な例である。

文化5年(1808年)、文化6年(1809年)、天保4年(1833年)、天保7年(1836年)には年貢減免を求める百姓一揆が勃発している。このような藩財政の悪化に対し、第7代藩主・興徳は二宮尊徳報徳仕法を手本とし、藩医・中村勧農衛(なかむら かのえ)を登用して財政再建を柱とする藩政改革を行なった。しかし、藩内部で仕法の反対を求める保守派の動きや、興徳がわずか3年後に死去した上に晩年は冷害に見舞われたこともあり、凶作と米価上昇に改革は挫折する。それでも家老に就任した中村による耕地回復活動は実を結び、耕地面積は回復した[4]。借金も豪商・釜屋七兵衛からの借金2000両を棒引きにするなどの強引な手段と、年貢収入の回復、熊本藩からの財政援助によってようやく減少に転じた。中村勧農衛は間引きを防ぐため『さとし草』を著し、農業人口の維持に努めようとした。しかし幕末に至るとまた凶作が相次いで一揆が頻発する一方、幕府政治に不満が高まって世直し一揆が発生した。

最後の藩主となった興貫は、戊辰戦争では新政府に与して会津若松城攻めに藩兵を派遣する。翌年の版籍奉還知藩事(藩知事)に就任、明治4年(1871年)2月8日、陣屋を再度茂木に移した。同年7月の廃藩置県ののち、第一次府県統合で谷田部の茂木藩領は新治県となり、のち茨城県に編入された。

陣屋跡

現在、跡地はつくば市立谷田部小学校になっている。校内に谷田部城跡の碑があるものの、何ら遺構は残っていない。なお、同校近くに所在する谷田部公民館に、御殿玄関の一部を残すのみである。

歴代藩主

細川家

外様 1万6200石

  1. 細川興元
  2. 細川興昌
  3. 細川興隆
  4. 細川興栄
  5. 細川興虎
  6. 細川興晴
  7. 細川興徳
  8. 細川興建
  9. 細川興貫

幕末の領地

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク

先代
常陸国
(藩としては茂木藩
行政区の変遷
1616年 - 1871年
次代
茂木藩