陳明宗

大越陳朝5代皇帝。英宗の四男

陳明宗(ちんめいそう、ベトナム語Trần Minh Tông / 陳明宗)は、陳朝大越の第5代皇帝。名はベトナム語Trần Mạnh / 陳奣)、または陳 日ベトナム語Trần Nhật Quáng / 陳日爌)とも[1]

明宗 陳
陳朝
第5代皇帝
王朝陳朝
在位期間1314年4月3日 - 1329年3月15日
姓・諱(陳日
諡号章堯文哲皇帝
廟号明宗
生年興隆8年8月21日
1300年9月4日
没年紹豊17年2月19日
1357年3月10日
英宗
昭憲皇太后
后妃憲慈皇后
陵墓穆陵
元号大慶 : 1314年 - 1323年
開泰 : 1324年 - 1329年

生涯

第4代皇帝・英宗の四男。興隆22年(1314年)、父から譲位されて即位した。大慶7年(1320年)に親政を開始すると治水・土木工事をたびたび行なった。

皇后の憲慈皇后ベトナム語版は叔父の恵武大王陳国瑱中国語版の娘であった。陳国瑱は英宗の代からの宿将で功績も多く[2]発言力が大きかったが、明宗はこれを疎んじてか[要出典]陳克終中国語版を重用した[2]。これに対して陳国瑱がたびたび諫言すると、明宗は陳国瑱を捕らえて幽閉し、そのまま餓死させるに至った。明宗の死後、裕宗は陳国瑱の名誉を回復させている[3]

開泰6年(1329年)に長男の陳旺(憲宗)に譲位して太上皇となった[2]が、憲宗は幼少だったため明宗が実権を掌握したままだった。この頃、大越には占城哀牢の侵入が始まり、それに悩まされるようになっていた。開祐2年(1330年)前後に数度、明宗は哀牢討伐のために親征するが、戦果を得るどころか大敗を喫して段汝諧中国語版らの重臣を失った[4]。開祐13年(1341年)に憲宗が早世したため、わずか6歳の十男・陳裕宗)を即位させ、引き続き実権を握った。だが、奸臣陳克終を重用して国を乱したことは明宗最大の失政だと史書は記している[2]

紹豊17年(1357年)に崩御、享年58。

子女

  • 憲宗 陳旺(長男)
  • 恭靖王 陳元(次男)
  • 芸宗(三男)
  • 恭敏王 陳元煦
  • 恭簡王 陳元石
  • 恭粛王 陳元昱(六男) - 楊日礼の義父。
  • 恭信王 陳善沢
  • 裕宗(十男)
  • 睿宗(十一男)

出典

参考文献

  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉1997年7月。 
先代
英宗
陳朝の第5代皇帝
1314年 - 1329年
次代
憲宗