隋末唐初

中国の時代区分 (618-630)

隋末唐初(ずいまつとうしょ)は、煬帝が殺された618年からによる支配が安定する630年頃までの混乱期のことである。

経緯

隋の煬帝による大運河建設、4回の高句麗遠征などは民衆を著しく疲弊させ、更に615年に雁門で突厥に包囲された際には恩賞を以て援軍を募ったものの、脱出後に恩賞を与えなかったため、諸将の怒りを買った。

そのため、618年に江都にて煬帝は驍果(近衛兵)を率いる司馬徳戡らにより殺害された。秦王楊浩(煬帝の弟の秦王楊俊の子)を擁立して皇帝とし、宇文化及は大丞相となった。

その後、楊浩を毒殺し、宇文化及は許を建国したものの、区域支配を確立することなく僅か1年にして夏を建国した竇建徳により滅び、混乱期となった。

歴史

の高祖・太宗となる李淵李世民親子は、617年に大興城を占拠し、煬帝の孫である楊侑を擁立した。翌618年、煬帝が殺害されると、李淵は楊侑に禅譲させることで、唐を建国した。段達王世充らも洛陽にて楊侑の兄の楊侗を擁立した後、619年に禅譲させて鄭を建国した。

その後、許・鄭・夏以外にも定楊・梁・秦・涼などが乱立したが、いずれも不安定であり、すぐに瓦解するか李淵・李世民の勢力が滅ぼすなどして混乱期は収束を迎えた[注釈 1]

独立勢力

Thumbs
国名在位年国都君主
618〜626、8年間
626〜649、23年間
長安李淵
李世民[1]
国名存在年国都初代君主最後の君主滅亡原因
618〜619、1年間宇文化及宇文化及竇建徳に敗れて処刑
619〜621、2年間洛陽王世充王世充李淵に敗北、蜀に流罪となる道中で独孤修徳が殺害
618〜621、3年間楽寿洺州竇建徳竇建徳李世民に敗れ長安で処刑
定楊617〜622、5年間馬邑劉武周劉武周李世民に敗れ突厥が殺害
617〜628、11年間朔方梁師都梁師都突厥に臣従後、ともに敗北、従弟の梁洛仁が殺害
617〜618、1年間金城薛挙薛仁杲李世民に敗れ長安で処刑
618〜619、1年間姑臧李軌李軌安興貴・安修仁による政変
618〜621、3年間江陵蕭銑蕭銑李淵に降伏、怒りを買い処刑
619〜621、2年間江都李子通李子通杜伏威による攻撃
617〜622、5年間虔州林士弘林士弘病で亡くなった
623〜624、1年間丹陽輔公祏中国語版輔公祏李孝恭に敗れて処刑
615〜619、4年間冠軍朱粲朱粲李淵に降伏[注釈 2]
称号存在年根拠地君主滅亡原因
魏公617〜618、1年間金墉城李密王世充に敗れ、李淵に降った
永楽王617〜618、1年間楡林郭子和唐に領地献上
呉王617〜619、2年間歴陽杜伏威唐に領地献上
燕王618〜624、6年間漁陽高開道張金樹による政変、自殺した
梁王618〜621、3年間毗陵沈法興李子通に敗れ、聞人遂安に降って心変わりし、敗北後河に飛び込んで自殺した
魯王621〜623、2年間任城徐円朗城を放棄して逃亡し、在野の人に殺された
漢東王622〜623、1年間洺州劉黒闥諸葛徳威に捕らえられ、李建成に処刑

関連項目

脚注

注釈

出典