駆潜艇
駆潜艇(くせんてい)とは[1]、対潜水艦戦闘を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の艦艇[注釈 1](軍艦)[注釈 2]。英語ではSubmarine chaserもしくはSubchaserとなる[4]。ドイツ語ではU-Jagd-BootやU-Boot-Zerstörer、フランス語ではChasseur de sous-marinsと呼称される。
おおむね基準排水量は1,000トン以下で、100トン以下の小艇も多い。沿岸部・近海部での行動を想定した航洋性を持つ[2]。こうした対潜艦艇は、爆雷など対潜戦用の兵装や[5]、ソナーなど探知兵器[6]を搭載した[注釈 3]。
日本語では潜水艦を「駆逐する」という意味で駆潜艇(旧字体驅潜艇)と呼ばれる[注釈 4]。特務艦艇の一種である[注釈 5]。大日本帝国海軍の駆潜艇は、海軍休日時代にロンドン海軍軍縮条約の制限下において開発された[注釈 6]。たが小型のため遠洋での長距離護衛任務を担うには性能が足らず、太平洋戦争でシーレーン防衛や船団護衛の主力を担ったのは駆逐艦や海防艦であった[注釈 7]。
概要
第一次世界大戦時、潜水艦が多数投入されるようになると通商破壊によりシーレーンが脅かされ[14]、船団護衛の必要性が生じた[15]。各国は敵潜水艦を制圧するための対策を講じ[16]、その一環として対潜武装と軽快な運動性を持った様々な艦艇が建造された[17]。また魚雷艇が爆雷を搭載して、対潜戦闘に参加する場合もあった[18]。これらが駆潜艇の始祖と言える。このころの代表的な駆潜艇がアメリカ海軍の建造したイーグル級哨戒艇である。
日本海軍において対潜戦闘や船団防備の任務を担っていたのは、駆逐艦であった[19][20][注釈 8][注釈 9]。戦間期になると、対潜水艦戦闘の切り札として新型駆潜艇の開発がすすめられた[注釈 6]。また駆潜艇を対潜戦闘に投入することで、汎用艦艇となりつつあった駆逐艦を、他の任務に用いることも可能になった[注釈 10]。この意味で、駆潜艇は駆逐艦を補助する役目を果たした[注釈 2]。第二次世界大戦の際も、各国で多数の駆潜艇が整備され実戦に投入された。
両大戦では、両陣営とも多くの漁船が徴用・改造されて特設艦艇として実戦投入され、駆潜艇として用いられたものもあった[24][注釈 11]。第二次大戦では日本海軍とイギリス海軍は漁船型の駆潜特務艇を多数建造した。これは遠洋漁船が量産に適し、小型の割りに航洋性に優れているためである[25]。洋上で敵の正規の軍艦と遭遇した場合、勝ち目がなかった[注釈 12]。
第二次大戦後、潜水艦の高性能化が進むに連れ、対潜艦艇も高性能の兵装・ソナーを備えるために艦が大型化し、対潜任務に特化した小型艇としての駆潜艇は廃れた。しかし、高速戦闘艇(FAC)やミサイル艇の中には、対潜兵装を備えかつての駆潜艇的任務に就くものもある。
日本の駆潜艇
第一次世界大戦後の海軍休日時代、1930年(昭和5年)4月に締結したロンドン海軍軍縮条約により巡洋艦や駆逐艦など補助艦艇の建造に制限が生じたが[27][28]、「排水量1万トン以下かつ速力20ノット以下の特務艦、排水量2,000トン以下で速力20ノット以下かつ備砲6.1インチ砲4門以下の艦、および排水量600トン以下の艦は無制限に建造してよい」という項目があった。日本海軍は二等駆逐艦の代替として千鳥型水雷艇[注釈 13]や鴻型水雷艇を建造した[30][20]。それと並行し、ロンドン海軍条約の枠内で潜水艦狩りを想定した小型艦艇を開発する[注釈 6]。1933年(昭和8年)5月23日に艦艇類別等級において駆潜艇として登録された[注釈 14]。
当時の日本海軍の駆潜艇は、対潜ソナーとして水中探信儀と水中聴音機を備え、攻撃兵装として爆雷を装備していた[注釈 15]。対潜兵装以外は、自衛用として対空戦に備えた火器を少数装備する[注釈 3]。対水上艦戦闘には不向きであった[注釈 16]。
駆潜艇数隻で「駆潜艇隊」を編制する[21]。駆潜艇は基本的に港湾防備や[7]、東シナ海や日本海など日本列島周辺の中国航路を想定した近海航路護衛用であった。港湾や拠点防備に関しては、駆潜艇と共に掃海艇や[32]、急設網艦も担当した[33]。
第二次世界大戦の太平洋戦争勃発後、南方作戦の成功にともないシーレーンが延長し、護衛艦艇が足りなくなった[34][注釈 17]。対潜護衛艇の不足を補うために、駆潜艇も船団護衛に投入された。さらに多くの木造漁船を徴用し特設駆潜艇としたほか、自らも木造漁船を基本構造とした駆潜特務艇を建造した。これら駆潜艇の性能不足は海軍上層部も認識しており、日本海軍は占守型海防艦(③計画)を基本にした戦時量産型海防艦を多数建造して対潜戦闘の主力にあてた[注釈 18][注釈 19]。しかし新型海防艦の大量就役は1943年(昭和18年)中盤以降となり[36]、駆潜艇は引き続き輸送作戦護衛や船団護衛に駆り出された。
海軍との役割分担として、上陸戦を目的とする有力な船舶部隊を保有する日本陸軍では、揚陸艦(陸軍特殊船)や輸送船を敵潜水艦より護衛する高速艇丙を開発した。のちに対潜水艦戦のみならず、対魚雷艇戦の機能も追加された高速戦闘艇たる高速艇丙は駆逐艇と称され、ソナー・爆雷・小口径主砲・機関砲を備えた。
海上自衛隊は1980年代まで駆潜艇を保有していたが、小型で発展性が無い駆潜艇では、高性能化する原子力潜水艦への対応が困難と考えられ、現在では整備を取り止めている。
日本海軍の駆潜艇(戦間期 ~ 第二次世界大戦時)
- 第一号型駆潜艇 - 2隻(①計画、昭和八年度追加計画)[37]
- 第三号型駆潜艇 - 1隻(②計画)
- 第五十一号型駆潜艇 - 3隻(②計画)
- 第四号型駆潜艇 - 9隻(③計画)
- 第十三号型駆潜艇 - 15隻(④計画)
- 第二八号型駆潜艇 - 34隻(マル急計画)
- 第一号型駆潜特務艇 - 試作的3隻ふくめ203隻(マル急計画)
日本陸軍の駆潜艇
- 駆逐艇 - 約60隻
海上自衛隊の駆潜艇
アメリカ海軍
ドイツ海軍
フランス海軍の駆潜艇
- Classe C 101
- Classe Chasseur 1
- Classe Chasseur 5
- Classe Chasseur 41
ロシア海軍
小型対潜艦艇の対潜戦闘を題材にした映画
- Corvette K-225(1943年)
- 大西洋攻防戦におけるフラワー級コルベットとUボートの戦闘を題材にした戦争映画。邦題は『駆潜艇K-225』。
- The Cruel Sea(1953年)
- フラワー級コルベットとUボートの交戦を題材にした戦争映画。邦題は『怒りの海』。
出典
注
脚注
参考文献
- 永井喜之、木俣滋郎「第2部 第二次大戦 - 日本編(13)練習巡洋艦「香取」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 井澤忠『日本海軍の後方支援に関する史的検証 : 出師準備計画及び作戦準備を中心として』防衛省防衛研究所〈戦史研究年報〉、2011年3月 。
- 伊藤科学研究所 編纂; 土方義春 監修「五、第一次歐洲大戰と軍艦」『艦船の科学』宝雲舎、1944年11月 。
- 小沢覚輔 編『英和海事用語辭典』三省堂、1942年7月 。
- 小原国芳「第三編 海軍」『児童百科大事典 .10(国防篇)』児童百科大事典刊行会〈児童百科大辞典〉、1932年6月 。
- 海軍協会「第六章 潜水艦の襲撃法と其の對抗手段」『潜水艦の話』三省堂〈クロモシリーズ〉、1930年9月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月 。
- 財團法人海軍有終會 編「第十篇 海運と漁業」『昭和十九年版 海軍要覧』海軍有終会、1944年8月 。
- 海洋文化協會 編纂『標準海語辭典』博文館、1944年8月 。
- 佐藤市郎『海軍五十年史』鱒書房、1943年5月 。
- 米國海軍少将ダブルユー・エス・シムス 原著; 日本海軍少佐石丸藤太 譯「第六章 米國学生と驅潜艇」『海上の勝利』小西書店、1924年12月 。
- 第二復員局残務處理部『海上護衛作戦(自一九四一年十二月至一九四五年八月)』1949年6月 。
- 大日本青年団本部 編『青少年團年鑑 昭和十八年度』大日本青年団本館、1943年6月 。
- 陸軍中将長岡外史; 海軍少将日高謹爾「(一一)獨逸の潜水艦戰」『飛行機の話、潜水艦の話』興文社〈小学生全集、80巻〉、1928年5月 。
- 長野邦雄「六、航空母艦の戰闘」『国防科学図解兵器』柴山教育出版社、1943年11月 。
- ヘクトル・バイウオーター『太平洋海権論』水交社、1922年7月 。
- 原田三夫「潜水艦の攻め方と防ぎ方」『少國民の科學 軍艦の話』森北書店、1943年4月、113-121頁 。
- 七田今朝一(元浅間艦長)『海戰の變貌』大新社、1943年3月 。