鳥海 (砲艦)
鳥海(ちょうかい、旧仮名:てうかい)は、日本海軍の砲艦[15]。艦名は秋田・山形県境の鳥海山にちなんで命名された[15][16]。
鳥海 | |
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竣工後間もない「鳥海」(1889年から1891年頃、佐世保と推定)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 石川島造船所[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 砲艦[3][4] |
級名 | 摩耶型砲艦[5] |
建造費 | 214,720円[6] |
母港 | 竣工時:横須賀[7] 佐世保(1889年5月28日-)[7] |
艦歴 | |
計画 | 明治16年度計画[5] |
発注 | 1885年3月2日製造契約締結[7] |
起工 | 1886年1月25日[7] |
進水 | 1887年8月20日[7] |
竣工 | 1888年12月27日[7] |
除籍 | 1908年4月1日[8] |
その後 | 佐世保海兵団附属雑役船舟[7] 1911年5月23日廃船[9]、翌年売却[10] |
要目(竣工時[11]) | |
排水量 | 624英トン |
垂線間長 | 47 m |
最大幅 | 8.200 m |
吃水 | 前部2.650 m 後部:3.250 m |
出力 | 700馬力 |
速力 | 計画:10ノット[12] |
燃料 | 石炭:68英トン |
乗員 | 1886年1月定員:115名[13] |
兵装 | 21cm克砲 1門 12cm克砲 1門 1インチ4連諾典砲 2基 |
搭載艇 | カッター1隻、ギグ2隻、ディンギー1隻[14] |
その他 | 船体:鉄 |
概要
石川島造船所で建造[2]、1887年に進水した[7]砲艦[3]。「愛宕」と同型(摩耶型砲艦[5])になる[17]。
朝鮮半島・清国沿岸の警備任務に多く従事し[18]、日清戦争では第三遊撃隊の1艦として威海衛攻略作戦に従事した[16]。北清事変に従軍。日露戦争では第三艦隊所属で、主に沿岸防御に従事した[16]。1908年除籍[8]。以後は佐世保水雷団の練習船となり[7]、1911年廃船[9]、船体は翌年売却された[10]。
艦型
他艦との相違点
- 船体は「摩耶」と同じ鉄製[11]。
- 1888年(明治21年)1月に推進器の改造が決定した[19]。青銅製3翼グリフィス型[20]で直径8 ft 6 in (2.591 m)、ピッチ9 ft 6 in (2.896 m)、ピッチ変化量9 ft (2.743 m)から10 ft (3.048 m)[21]。別資料によると直径2.445m、ピッチ2.846m、翼面積は1個当たり1.453平方メートル[22]。
- 竣工時の兵装は21cm克(クルップ)砲1門、12cm克砲1門、1インチ4連諾典砲2基だった[11]。重量の関係で艦首主砲(21cm砲)の搭載位置は「摩耶」の搭載位置と比較して若干後方へ移動した[23]。
要目
製造契約時の要目は以下の通り[24]。
- 垂線間長:154 ft 3 in (47.015 m)
- 最大幅:26 ft 11 in (8.204 m)
- 船倉の深さ:13 ft 7 in (4.140 m)
- 吃水:前部8 ft 8 in (2.642 m)、後部10 ft 8 in (3.251 m)
- 機関:2軸、横置連合レシプロ
- 出力:自然通風700馬力、強圧通風950馬力
- 速力:10ノット[12]
変遷
- 1889年(明治22年)5月16日に搭載艇を「摩耶」「愛宕」と同じカッター2隻、ギグ2隻に変更することが認許された[14]。
- 1894年(明治27年)時の兵装は21cm克砲1門、25口径12cm克砲1門、25mm諾式4連装機砲2基[5]。
公試成績
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
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1888年12月6日 | 強圧通風 | 右舷高圧:217.68 同低圧:112.25 左舷高圧:不明 同低圧:132.44 | 平均7.99ノット | 竣工前の試運転 | [25] | |||
公試 | 140rpm | 744馬力 | 10.33ノット | [22] | ||||
強圧通風全力 | 140rpm | 747馬力 | 10.86ノット | 竣工後の公試 | [26] |
艦歴
建造
1885年(明治18年)1月頃に「愛宕」と同型の砲艦を石川島造船所で1隻、小野浜造船所で1隻(後の「摩耶」)製造することが決定し[17]、3月2日に石川島造船所と製造契約を締結[7]、製造期限は23カ月[24]、契約金額は164,500円[27]、または162,830.94円[28]。3月5日「鳥海」と命名された[7]。艦名候補として
1889年
1889年(明治22年)5月28日佐世保鎮守府所轄航海練習艦に定められた[7]。12月26日佐世保鎮守府警備艦に指定された[7][34]。
1890年
1890年(明治23年)1月6日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。8月23日第一種に指定[7]。10月4日「鳥海」は長崎港に帰国した[18]。
1892年 - 1893年
1892年(明治25年)8月20日朝鮮国警備のために佐世保を出港[18]、1893年(明治26年)7月25日佐世保港に帰国した[18]。
1894年
1894年(明治27年)4月4日練習艦の役務を解かれ[35]、5月23日予備艦に指定[36]、同日第1予備艦に編入[37]、第1予備艦の間は定員67名とされた[38]。6月5日予備艦だった「鳥海」は警備艦に指定された[39][40]、6月10日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。7月19日常備艦隊に編入された[41][40]。
日清戦争
1895年
1895年(明治28年)9月10日常備艦隊から除かれ、西海艦隊に編入された[42][40]。11月15日西海艦隊から除かれ、佐世保鎮守府警備艦に定められた[40]。11月23日佐世保港に帰国した[18]。
1896年
1896年(明治29年)3月16日常備艦隊に編入された[40]。3月17日に朝鮮国警備のため佐世保を出港[18]、8月27日竹敷に帰国した[18]。10月21日役務を解かれた[40]。
1897年
1897年(明治30年)3月8日第1予備艦とされ、4月12日常備艦隊に編入された[40]。5月8日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。
1898年
1898年(明治31年)1月19日尾崎に帰国した[18]。1月28日常備艦隊より除かれ、第2予備艦に定められた[40]。3月21日類別等級を二等砲艦とされた[40]。5月3日警備艦兼練習艦に定められた[40]。8月2日常備艦隊に編入された[40]。9月4日韓国警備のために佐世保を出港した[18]。
1899年
1899年(明治32年)3月11日竹敷に帰国した[18]。5月3日常備艦隊から除かれ[40]、第1予備艦に定められた[43]。6月17日佐世保鎮守府艦隊に編入された[43]。9月29日常備艦隊に編入された[43]。10月16日に清国警備のために佐世保を出港した[18]。
1900年
1900年(明治33年)5月15日佐世保港に帰国[18]、5月20日役務を解かれ、同日第1予備艦に定められた[43]。
北清事変
1900年(明治33年)8月11日常備艦隊に編入された[43]。8月27日佐世保を出港[18]、北清事変では大沽方面の警備に従事した。12月15日佐世保港に帰国した[18]。12月18日役務を解かれ、第2予備艦に定められた[43]。
修理
1901年(明治34年)12月に従来のボイラーが老朽化のため、佐世保造船廠に於いて同形式の新ボイラーと交換された[26]。1902年(明治35年)1月28日第3予備艦に定められた[43]。
1903年
1903年(明治36年)1月23日第1予備艦に定められた[43]。6月22日常備艦隊に編入[44]、翌23日居留民保護の為に清国派遣が命令された[44]。7月14日北清警備のために佐世保を出港[18]、9月14日佐世保港に帰国した[18]。10月23日居留民保護の任務が解かれ、帰国命令が出された[44]。12月28日第三艦隊に編入された[44]。
1904年
1904年(明治37年)1月29日韓国南岸の警備のために竹敷を出港、2月2日竹敷に帰国した[18]。
日露戦争
2月6日日露戦争開戦[18]。「鳥海」は2月12日尾碕を出港[18]、5月26日、砲艦「筑紫」とともに対地支援射撃を実施して陸軍第2軍(司令官:男爵奥保鞏大将)の南山攻撃を援護したが、ロシア軍南山砲台から反撃を受け艦長林三子雄中佐が戦死した。8月からの旅順攻略作戦に参加。
1905年(明治38年)1月25日神ノ浦に一時帰国[18]、3月29日神ノ浦を出港[18]、4月18日尾崎に一時帰国した[18]。6月14日第四艦隊に編入された[44]。7月6日鴛泊港を出港[18]、樺太作戦に参加、8月1日小樽港に帰国した[18]。8月20日第四艦隊から除かれ、警備艦に定められた[44]。10月16日終戦となった[18]。
1905年 - 1906年
1905年(明治38年)11月4日旅順鎮守府司令長官の指揮下に入った[44]。
1906年(明治39年)2月8日遼東半島警備のために神ノ浦を出港[18]、8月4日佐世保港に一時帰国[18]。8月9日佐世保を出港、引き続き遼東半島の警備任務に就いた[18]。11月5日旅順鎮守府司令長官の指揮下から除かれ、同日第2予備艦に定められた[44]。11月18日薄香港(長崎県平戸市)に帰国した[18]。
除籍後
1908年(明治41年)4月1日除籍[8][44]、艦艇類別等級別表からも削除された[45][46]。同日雑役船舟とされ、練習のために佐世保海兵団の附属とされた[46]。同地で五等機関兵の実地訓練等に使用された[47]。
1911年(明治44年)4月1日「鳥海」は佐世保海兵団から還納の上、廃船とする訓令が出された[46]。5月23日廃船[9]。12月21日売却訓令[48]。翌1912年(明治45年)3月5日に売却が報告された[10]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 品川四方一 少佐:1888年5月14日 - 1891年12月14日
- 伊藤常作 少佐:1891年12月14日 - 1893年10月12日
- 上村彦之丞 少佐:1893年10月12日 - 1894年6月8日
- 東郷正路 少佐:1894年6月8日 - 1895年1月30日
- 小倉鋲一郎 少佐:1895年8月27日 - 1897年2月4日
- 中尾雄 少佐:1897年2月18日 - 1897年10月8日
- 矢島功 少佐:1897年10月8日 - 1897年12月27日
- 宮岡直記 中佐:1897年12月27日 - 1898年10月1日
- 藤井較一 中佐:1898年10月1日 - 1899年6月17日
- 高橋助一郎 中佐:1899年6月17日 - 1900年5月20日
- 中村貞邦 中佐:1900年8月11日 - 1901年2月18日
- 森義太郎 中佐:1903年6月22日 - 1903年11月5日
- 山澄太郎三 中佐:1903年11月5日 - 1904年3月29日
- 林三子雄 中佐:1904年3月29日[49] - 1904年5月26日(戦死)
- 広瀬勝比古 中佐:1904年5月 - 1905年1月7日
- 牛田従三郎 中佐:1905年1月7日 - 1905年8月5日
- 高島万太郎 中佐:1906年9月28日 - 1907年2月28日
- 中野直枝 中佐:1907年2月28日 - 1907年7月1日
- 高木七太郎 中佐:1907年7月1日 - 1908年2月20日
- (兼)松永光敬 中佐:1908年2月20日 -
脚注
注釈
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 『公文備考別輯 完 新艦製造部 武蔵 鳥海 小鷹 満珠 干珠 明治15~21』
- 「18年1月8日 主船局上申 砲艦1艘石川島平野造船所に於て製造の件」、JACAR:C11081437400。
- 「18年1月4日 主船局上申 平野造船所より砲艦1艘代償調書進達並右製造命令書案上呈の件」、JACAR:C11081437500。
- 「19年5月13日 艦政局上申 平野造船所より鳥海艦製造日限延期出願の件」、JACAR:C11081437700。
- 「18年3月5日 一般へ達 石川島造船所に於て製造の砲艦名号鳥海と命名の件」、JACAR:C11081437600。
- 「19年5月13日 艦政局上申 平野造船所より鳥海艦製造日限延期出願の件」、JACAR:C11081437700。
- 「20年6月16日 艦政局上申 鳥海艦製造費増額の件」、JACAR:C11081437800。
- 「21年1月12日 艦政局上申 鳥海艦推進器改造の件」、JACAR:C11081438200。
- 「20年8月20日 呉西郷大臣へ電信 鳥海艦首尾能進水せり」、JACAR:C11081439100。
- 「21年5月18日 横須賀鎮守府伝達 鳥海横須賀鎮守府所轄と定めらる」、JACAR:C11081439400。
- 「21年12月27日 横須賀鎮守府へ訓令 鳥海横須賀鎮守府へ引渡方」、JACAR:C11081439500。
- 『公文雑輯』
- 「明治22年5月16日 鳥海艦長上申端艇改造の義に付上申の件」『明治22年 公文雑輯 巻3 教育 演習 艦船1』、JACAR:C10124541000。
- 『公文備考』
- 「1売却払下廃却処分(1)」『明治44年 公文備考 艦船40 巻56』、JACAR:C07090178100。
- 「1売却払下廃却処分(3)」『明治44年 公文備考 艦船40 巻56』、JACAR:C07090178300。
- 「1売却払下(1)」『明治45年~大正1年 公文備考 巻33 艦船7』、JACAR:C08020047500。
- 「1第2290号 8.5.17 初代鳥海艦歴に関する件」『昭和8年 公文備考 F 艦船 巻9』、JACAR:C05022910500。
- 『四季演習記』
- 「夏季演習機関部報告」『四季演習記 巻6 夏季連合演習記(3)止 軍艦駆逐隊 艇隊演習記 明治41』、JACAR:C11081785100。
- 海軍省『達』
- 「12月」『明治22年 達 下巻』、JACAR:C12070027100。
- 「4月(1)」『明治27年 達 上巻』、JACAR:C12070033200。
- 「5月」『明治27年 達 下巻』、JACAR:C12070033700。
- 「6月」『明治27年 達 下巻』、JACAR:C12070033800。
- 「7月」『明治27年 達 下巻』、JACAR:C12070033900。
- 「9月」『明治28年 達 完』、JACAR:C12070035500。
- 「3月」『明治41年 達 完』、JACAR:C12070057200。
- 「除籍艦艇/軍艦(3)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、JACAR:C14010005700。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 『海軍軍備沿革』海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』 <普及版>、潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 解説:中川努『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
関連項目
- 鳥海 [II]