オリバー・カーン

ドイツのサッカー選手 (1969 - )

オリバー・カーンOliver Rolf Kahn, 1969年6月15日 - )は、西ドイツカールスルーエ出身の元サッカー選手。ポジションはGK。

オリバー・カーン
2022年のカーン
名前
本名オリヴァー・ロルフ・カーン
Oliver Rolf Kahn
愛称オリー、ティターン
ラテン文字Oliver KAHN
基本情報
国籍ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1969-06-15) 1969年6月15日(54歳)
出身地西ドイツの旗 西ドイツカールスルーエ
身長188cm
体重91kg
選手情報
ポジションGK
利き足右足
ユース
1975-1987ドイツの旗 カールスルーエ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1987-1990ドイツの旗 カールスルーエII 73 (0)
1987-1994ドイツの旗 カールスルーエSC 128 (0)
1994-2008ドイツの旗 FCバイエルン・ミュンヘン 429 (0)
代表歴
1994-2006ドイツの旗 ドイツ86 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
アリアンツ・アレナで行われた引退試合の様子

野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。ゼップ・マイヤーハラルト・シューマッハーらと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、欧州サッカー連盟が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。

経歴

祖父母はラトビア出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た[1]。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている[2]

16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。カールスルーエに加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。

ブンデスリーガUEFAカップでの活躍が認められ、1994年、名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍。初年度は味方ディフェンダークフォーと衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。

1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝は大会史上に残る名勝負となったが[要出典]、終了直前の3分間に2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「キッカー」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。

2000-01シーズンには自らの活躍により、バイエルンをUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導き、2年前の雪辱を果たした。2002 FIFAワールドカップ後は、私生活の問題もあってコンディションを落としたが、2004-05シーズンには完全復活した[要出典]

バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、ミュンヘンで引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。

ドイツ代表

ドイツ代表では、FIFAワールドカップを4回経験している。しかし、1994年大会にはボド・イルクナー1998年大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強いイェンス・レーマンとの正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。

代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのはUEFA欧州選手権2000。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。

2002 FIFAワールドカップにはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、イングランド戦でマイケル・オーウェンのハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発。なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した[要出典]。自身は決勝戦においてブラジル代表のジウベルト・シウバとの接触プレーにより靭帯損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。最終的には準優勝に終わったものの、ゴールキーパーとして初のワールドカップMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。

カーンにとって実質3度目の国際大会となるUEFA欧州選手権2004では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。

EURO2004後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマンと正GKの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。

実質最後のワールドカップといわれた地元開催の2006 FIFAワールドカップでは、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして2006年7月8日(日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。

引退後

引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、2020年1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌2021年7月からはカール=ハインツ・ルンメニゲの後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した[3]。しかし2023年5月、バイエルンがリーグ11連覇を達成した直後、CEOを解任された[4]

選手としての特徴

相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった[5]。2021年1月にマヌエル・ノイアーに記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート記録を保持していた[6]

エピソード

個人成績

シーズンクラブリーグリーグカップUEFA主催合計
出場得点出場得点出場得点出場得点
1987-88カールスルーエブンデスリーガ2000-20
1988-892000-20
1989-900000-00
1990-9122000-220
1991-9237020-390
1992-9334050-390
1993-9431030100440
1994-95バイエルン・ミュンヘン2302注1050300
1995-9632020120460
1996-973204020380
1997-983408080500
1998-9930080130510
1999-0027050130450
2000-0132040160520
2001-0232050140510
2002-033306060450
2003-043305080460
2004-0532070100490
2005-063106070440
2006-073203090440
2007-082607090420
通算557082014207810

注1 DFLスーパーカップの記録を含む。

代表での出場記録


ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
199520
199630
199730
199870
199960
2000100
2001100
2002150
200390
2004110
200570
200630
通算860

獲得タイトル

クラブ

  • トヨタカップ 2001
  • UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01
  • UEFAカップ 1995-96
  • ブンデスリーガ 8回(1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツカップ 6回(1997-98, 1999-2000, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツリーグカップ 6回(1997, 1998, 1999, 2000, 2004, 2007)

代表

個人

著書

脚注

外部リンク