オリビエ・グルイヤール

フランスのレーシングドライバー (1958-)

オリビエ・グルイヤールOlivier Grouillard1958年9月2日 - )は、フランスの元レーシングドライバー。1989年から1992年までF1世界選手権に参戦した。

オリビエ・グルイヤール
基本情報
国籍フランスの旗 フランス
出身地同・トゥールーズ
生年月日 (1958-09-02) 1958年9月2日(65歳)
F1での経歴
活動時期1989-1992
所属チーム'89 リジェ
'90 オゼッラ
'91 フォンドメタル
'91 AGS
'92 ティレル
出走回数62 (41スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント1
ポールポジション0
ファステストラップ0
初勝利-
最終勝利-
最終戦1992年オーストラリアGP
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経歴

初期の経歴

1981年よりレース活動を開始、多くのドライバーが幼少・少年期頃からレース活動を始めるのに対し、この時点で既に23歳と遅めのスタートだった。レース活動開始年齢が遅い理由は同国の先輩であるアラン・プロストと似ており、少年期からサッカー選手を目指していたためであった。

1983年、フランスF3でランキング4位と頭角を現し、1984年にオレカチームのマルティニ・MK39 アルファロメオを駆りフランスF3チャンピオンを獲得。

1985年、F3時代から所属するオレカチームより国際F3000選手権にステップアップ。1988年ルネ・アルヌーがオーナーのレーシングチーム「GDBAモータースポーツフランス語版DAMSの前身チーム[1])」へ移籍すると、3度のポールポジション獲得や、決勝レースでもシーズン2勝を挙げランキング2位を獲得。F3000には4年参戦することになったが、同年の活躍によりアルヌーが所属する母国フランスのF1チームリジェのシート獲得に成功した。

フォーミュラ1

1989年

予選落ちも4度喫するなど下位グリッドに埋もれることも多かったが、ベテランのアルヌーを予選成績で12勝4敗と圧倒し、時折10位・11位等の好グリッドを獲得した。

決勝レースでも4度のシングルフィニッシュを記録。第7戦フランスGPでは6位入賞し選手権ポイント1を獲得。最終的には、これがF1キャリア唯一の入賞となった。

1990年

1カー体制となったオゼッラに移籍。オゼッラはイタリアの小規模プライベイトチームであり、2回の予備予選落ち・5度の予選落ちを喫したが、過半数は決勝まで進出。特に開幕戦アメリカGPでオゼッラでは驚異的ともいえる8位グリッドを獲得した。

決勝での最高位は、第5戦カナダGPと最終戦オーストラリアGPで記録した13位だった。

1991年

チームとの契約を更新し、フォンドメタルに改称した旧オゼッラチームから出走。予備予選の突破も困難な状況となったが、シーズン初の予備予選突破となった第6戦メキシコGPでは、予選10位の好グリッドで決勝に進出した[2]

続く第7戦フランスGPでも2戦連続の予選突破を果たすなど、第13戦ポルトガルGP終了時点で、計4度[3]決勝に進出(決勝最高位は20位)していたが、ポルトガルGP後に突然契約解除され、チームは後任としてガブリエル・タルキーニを加入させた。

グルイヤールによるとこの解雇は一方的なもので、ポルトガルGPの翌日にオーナーのガブリエル・ルミから電報電話で解雇を告げられ、フォンドメタルはその日のうちにタルキーニと契約を締結したのだという[4]。グルイヤールはチームに見解を求めるも取り合って貰えず、第14戦スペインGPには、それまでタルキーニが在籍していたAGSから参戦するも予備予選不通過に終わる。AGSは深刻な資金不足に陥っており、そのレース限りでF1撤退した為、結局AGSからの参戦はこの1戦のみとなった。

1992年

イギリスの名門ティレルのレギュラーシート獲得に成功する。ティレルは前年に使用したホンダエンジンや中嶋悟ステファノ・モデナの両ドライバーとも失うという転換期であったが、グルイヤールにとってはそれまでより上位チームからのF1参戦が実現。マシンはエンジンをイルモアエンジンに乗せ換えた020Bシャシーであったが、ホンダV10エンジンよりもイルモアエンジンが軽量だったことが駆動系の負担を減らし、シャシーバランスが良化していた。開幕戦南アフリカGPで予選12位につけ、雨の第4戦スペインGPで一時5位に浮上する等(最終的にはリタイヤ)、見せ場も皆無ではなかったがチームメイトとなったアンドレア・デ・チェザリスに対し、予選では2勝14敗。決勝でもデ・チェザリスが8ポイントを稼ぎ、チームをコンストラクターズ選手権6位に導いたのに対し、グルイヤールは第5戦サンマリノGPでの8位が最高位でノーポイントに終わった。リタイヤも終盤の7戦連続を含め計12度記録し、速さ・安定性ともデ・チェザリスの影に隠れる結果となった。最後のF1出走となった第16戦オーストラリアGPではスタート直後にピエルルイジ・マルティニジョニー・ハーバートを巻き込みクラッシュしリタイアに終わる。これ以後F1シートを得ることは無かった。

スポーツカーレース

シートを求めアメリカに渡り、CARTにスポット参戦した。ヨーロッパではFIA GT選手権など様々なカテゴリーを転々とした。

全日本GT選手権にも出場経験があり、1996年のオールスター戦にTOYOTA TEAM SARDのデンソーサードスープラGTで出場し、翌1997年の開幕戦にも同チームから出場し2位を獲得した。しかし第2戦からは谷川達也に交代し、参戦を終了した。

レース戦績

フランス・フォーミュラ3選手権

エントラントシャーシエンジン123456789101112順位ポイント
1983年オレカマルティニ Mk39アルファロメオLED
10
NOG
5
LEC
4
ALB
3
MAG
Ret
DIJ
3
LAC
DSQ
ROU
13
NOG2
14
ALB2
4
LED2
2
CET
Ret
4位73
1984年マルティニ Mk42ALB
1
NOG
3
DIJ
1
PAU
1
ROU
Ret
CET
2
MAG
1
LED
2
ALB2
4
1位108

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

エントラントシャーシエンジン12345678910111213141516順位ポイント
1983年オレカマルティニ MK39アルファロメオVLLNÜR
C
ZOLMAG
Ret
ÖST
LAC
14
SIL
MNZ
MIS
ZAN
KNU
NOG
14
JAR
IMO
DON
CETNC0

国際F3000選手権

エントラントシャーシエンジンタイヤ123456789101112順位ポイント
1985年オレカマーチ 85Bコスワース DFVASILTHR
8
EST
6
NÜRVLL
4
PAU
4
SPA
Ret
DIJ
7
PER
8
ÖST
8
ZANDON12位7
1986年Hotz-Formula Team Ltd.ローラ T86/50SILVLLPAUSPAIMOMUG
4
PERÖST
6
BIR
Ret
BUGJAR
9
16位4
1987年オレカマーチ 87BSIL
7
VLL
Ret
SPA
DNQ
PAU
4
DON
12
PER
Ret
BRH
15
BIR
6
IMO
Ret
BUG
Ret
JAR
Ret
17位4
1988年GDBAモータースポーツ英語版ローラ T88/50JER
5
VLL
3
PAU
Ret
SIL
Ret
MNZ
Ret
PER
2
BRH
Ret
BIR
DNS
BUG
1
ZOL
1
DIJ
3
2位34

F1

所属チームエンジン12345678910111213141516WDCポイント
1989年リジェフォード V8BRA
9
SMR
DSQ
MON
Ret
MEX
8
USA
DNQ
CAN
DNQ
FRA
6
GBR
7
GER
Ret
HUN
DNQ
BEL
13
ITA
Ret
POR
DNQ
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
26位1
1990年オゼッラフォード V8USA
Ret
BRA
Ret
SMR
Ret
MON
DNQ
CAN
13
MEX
19
FRA
DNPQ
GBR
DNQ
GER
DNQ
HUN
DNPQ
BEL
16
ITA
Ret
POR
DNQ
ESP
Ret
JPN
DNQ
AUS
13
31位
(NC)
0
1991年フォンドメタルフォード V8USA
DNPQ
BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
CAN
DNPQ
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNQ
BEL
10
ITA
Ret
POR
DNPQ
34位
(NC)
0
AGSフォード V8ESP
DNPQ
JPN
AUS
1992年ティレルイルモア V10RSA
Ret
MEX
Ret
BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
8
MON
Ret
CAN
12
FRA
11
GBR
11
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
24位
(NC)
0

CART

チームシャーシエンジン12345678910111213141516順位PtsRef
1993年Indy Regency Racingローラ・T92/00シボレーSRF
PHX
LBH
INDY
DNQ
MIL
12
DET
24
POR
13
CLE
11
TOR
DNS
MCH
17
NHA
12
ROA
16
VAN
26
MDO
16
NAZ
18
LAG
20
28位4[5]

インディ500

シャシーエンジンスタートフィニッシュチーム
1993年ローラ・T92/00シボレー34位DNQIndy Regency Racing

全日本GT選手権

チームコ.ドライバー使用車両タイヤクラス123456順位ポイント
1997年DENSO TOYOTA SARD 影山正美トヨタ・スープラYGT500SUZ
2
FSWSENFSWMINSUG14位15

ル・マン24時間レース

チームコ・ドライバー使用車両クラス周回総合順位クラス順位
1990年 NISMO ケニー・アチソン
マーティン・ドネリー
日産・R90CKC10DNSDNS
1994年 ジャカディ・レーシング ミシェル・フェルテ
ミシェル・ヌーガルテンドイツ語版
ベンチュリ―・600LMGT1107DNFDNF
1995年 ジロー・レーシング・チーム ファビアン・ジロー
ジャン=デニス・デレトラズ
マクラーレン・F1 GTRGT12905位4位
1996年 ハロッズ マック・ワン・レーシング
デビッド・プライス・レーシング
アンディ・ウォレス
デレック・ベル
GT12966位5位
1997年 クラージュ・コンペティション マリオ・アンドレッティ
マイケル・アンドレッティ
クラージュ・C36-ポルシェLMP197DNFDNF
1998年 アンリ・ペスカロロ
フランク・モンタニー
LMP130415位4位
2000年 ペスカロロ・スポール セバスチャン・ボーデ
エマニュエル・クレリコ
クラージュ・C52-プジョーLMP9003444位4位

エピソード

周回遅れの時にも優勝争いやポイント争いをしているドライバーに進路を譲らない事から、上位ドライバーからはよく怒りのポーズを掲げられることがあった[6]。また弱小チームに所属していたためマシンの完走能力が低い場合が多く、コース上にオイルスモークを撒き散らすシーンが見られ、頻繁に後続車に迷惑を掛けた。日本でのテレビ中継ではこうした様子に対して、実況担当の古舘伊知郎が「周回遅れの天才ブロッカー」や「ミラーを見ない男」「妖怪油すまし」「F1界のヘビースモーカー」、「かつてのチームメイトであったルネ・アルヌー譲りの荒く強引で一人よがりのドライビング」、「一度速いマシンに乗せてみたいドライバーの1人」、「チームメイトのデ・チェザリスはかつての壊し屋、グルイヤールは現在の壊し屋」などと誇張し揶揄された。

予選中に走行ラインが交錯した問題でグルイヤールのピットにどなりこんできたナイジェル・マンセルの胸ぐらを逆に掴みかえした唯一の男でもある。また鈴鹿サーキットホテルの大浴場がお気に入りで、毎回鈴鹿での日本GPを楽しみにしていたという。

注釈

関連項目

タイトル
先代
ミシェル・フェルテ
フランスF3選手権 チャンピオン
1984
次代
ピエール=アンリ・ラファネル
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