テメレール級戦列艦

テメレール級戦列艦(テメレールきゅうせんれつかん、: vaisseaux de ligne de la classe Téméraire)は、フランス海軍74門戦列艦の艦級。部品や装備を流用可能にするため同一の設計図を基に建造された最初の艦艇群の一つである[1]

テメレール級戦列艦
基本情報
艦種74門戦列艦
運用者
就役期間1782年 - 1862年
建造数128
前級セントール級戦列艦英語版
次級トナン級戦列艦
要目
排水量2,900 トン
全長砲列甲板:55.87 m
最大幅14.90 m
吃水7.26 m
帆装3本マストシップ
総帆面積 2,485 m2
乗員700名
兵装74門:
36または32ポンド砲×28門
24ポンド砲×30門
8ポンド砲×16門
36ポンドカロネード砲×4門
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1782年から1813年の期間に120隻以上が建造され、今日に至るまで主力艦として建造された艦級の同型艦数としては最多のものである[2]

その設計はイギリスでも高く評価され、捕獲された艦は可能な限り再就役させられ、その設計を模した戦列艦(ポンペイ級)も建造された。

前史

18世紀前半、フランス海軍では「ブルボンフランス語版」をはじめとする新型戦列艦の建造を進めていた。多くの船が建造されたが、それらには寸法や備砲の構成に多少の差異があった。当初は36ポンド砲フランス語版26門、18ポンド砲フランス語版28門、8ポンド砲16門、4ポンド砲4門という構成が主流だったが、1739年建造の「テリブルフランス語版」以降、36ポンド砲28門、18ポンド砲30門、8ポンド砲16門という構成が主流となった。

スペインでも、この規格を採用した5隻の戦列艦が1760年代にサンタンデールで建造された。

特に七年戦争で多くのフランス製74門艦を鹵獲し、それを使用したイギリス海軍は自らも同型の船の建造に着手し、やがて74門艦はヨーロッパ各国の海軍に主力艦として急速に普及した。七年戦争が終わり、多くの艦を失ったフランスでは海軍の再建過程で多くの74門艦が建造されたことで、艦の性能はさらに向上した。

開発

1803年6月28日の海戦英語版での「ハーキュリー」(元「エルキュール英語版」)

ジャン=シャルル・ド・ボルダが造船技師ジャック=ノエル・サネーフランス語版の協力を得て推し進めたフランス海軍再建計画では、1/48の設計図が制作され、それによって船体の構造や部品の統一が図られ、特にマストについては標準化が達成された。

当時、サネーはフリゲート(「シビーレ (Sibylle)」「エベーフランス語版(Hébé)」「ヴィルジニー (Virginie)」)や従来型の74門艦(大型フリゲートに近い)における設計の優秀さで既に知られた存在だったが、1782年に「テメレール (Téméraire)」と名付けた新型74門艦の建造計画を発表した。この計画は造船における技術革新の見本となることが期待された。

「テメレール」は全長55mと同時代の74門艦と比べると大型だが、フリゲートに近い機動性と速度を備えており、また火力や砲の構成でも様々な改良が加えられていた。

特に画期的だったのは同一の設計を採用することで工期やコストを大幅に削減させたことにある。また同一設計の採用は船体の建造工程において著しい生産性の向上も実現させた。同一の部品を使用することで、部品さえあれば国内の全ての造船所において整備や定期修理が可能となった。

同型の船の採用は士官や水兵の乗り替わりを容易にし、彼らの均質化をもたらした。海上での連携のとれた艦隊行動や予備役となった艦の復帰も容易になった。

1783年、1番艦「テメレール」はブレストで進水した。

運用史

高速で機動性に優れ、敵の大型艦に十分対抗できる堪航性と戦闘力を持つ74門艦は、18世紀末のヨーロッパ各国の海軍において、主力艦として急速に普及していた。

テメレール級もフランス革命戦争からナポレオン戦争を通してフランス海軍の主力となり、海戦では後に建造された高速艦のトナン級(80門)や大火力のオセアン級フランス語版(118門)とともに敵艦隊を圧倒することが期待されていた。

しかし、実際の戦闘ではフランス艦隊はイギリス艦隊を相手に連敗を続けた。その原因は、兵器の性能差ではなく、革命政府帝政の下で戦争が続いたために兵員の補充が進まず、海上での経験や技量の面で大きな差があったことが原因である。また船内の劣悪な衛生環境や食糧事情から、イギリスでは1795年に予防法が確立されていた壊血病に苦しめられる兵員も多かった。

Michèle Battesti[注釈 1]は当時のフランス海軍の惨状をこう書いている[4]

(革命によって)貴族出身の高級将校の多くが軍を追われたことで、海軍参謀本部は機能不全に陥り、そこに人員の不足と質の低下が重なった。海軍の人員募集は、それまで以上に困難になった。私掠船との競合、そして政府の混乱によって海軍は弱体化し、反革命勢力との戦争はフランス西部と南東部での徴募に影響を与えた。

徴兵フランス語版を免れるための逃亡や部隊からの脱走が相次いだ。一例として、コルフ島から戻ったブリュイ提督の艦隊は兵員の脱走を防ぐためトゥーロン沖の海上に留置させられた。9ヶ月間も無給で働かされた上、その倍の期間フランスの土を踏めなかった彼らの心境は想像に難くない。

船の武装を運用する人員を確保するため、強制徴募、陸軍兵士の転用などあらゆる手段がとられた。船員は漁夫や沿岸航路河川航路の船員を徴兵したが、彼らの中には海を見たことがない者もいた。

アブキール海戦に将校として参加したルネ・サバティエ・ド・ラシャデネードフランス語版は「当時の私の部隊には少年兵しかいなかった」と証言している。

結果として多くの船が不慣れな乗組員の手で運用され、ときには出撃した艦隊の4分の1が沈められたこともあった。 一部の例外はあるものの、無能な提督や艦長の主体性のない指揮も敗因とされている。当時のフランス海軍の指揮官は、革命で貴族出身将校の多くがイギリスへ亡命した結果として昇進した者が多く、イギリス海軍の革新的戦術(ホレーショ・ネルソンがアブキール海戦で使った「十字砲火」、トラファルガーの海戦での「ネルソン・タッチ」)やカロネード砲(中距離での命中率は低いが一斉射撃することで敵艦の上部構造を破壊し、装填時間も短い)をはじめとする先進技術に適応できなかった。

処女航海で英国艦「マーズ」に拿捕される「エルキュール」

しかし、これらの戦闘経験からフランス艦の優秀さを認めていたネルソンは「世界最高の海軍とは、イギリス人水兵の乗り組んだフランス製の艦で構成された海軍である」と発言したとされる。

実際に、イギリス海軍では無傷に近い状態で鹵獲できた敵艦を整備して自軍の戦力とする例は多かった。イギリス側に鹵獲されたテメレール級の多くが、イギリス海軍で使用されている。例としてアブキール湾から生還し、1800年のマルタ護送船団の海戦でイギリスに捕獲された「ジェネルーフランス語版(Généreux / HMS Genereux)」、処女航海初日の1798年4月21日にラ・ド・サンフランス語版海峡で英国戦列艦「マーズ (HMS Mars)」に拿捕された「エルキュール英語版(Hercule)」がある。

艦型

外形寸法

船体は全長172フィート (55.87 m)、 全幅44フィート6インチ (14.90 m)、吃水は船体中央部で22フィート (7.26 m) 。排水量は2,900 トン

帆走機構

3本マストの全装帆船で各檣には3段の横帆を備え、風の条件が良いときにはさらに3枚のステイセイル(ジブ)とバウスプリットセイルを張ることができた。すべの帆の面積の合計は2,485 m2である。

乗組員

1786年1月1日時点の記録によると[5]、戦時の乗員数は705名(平時は495名)と規定されており、その内訳は士官12名、士官見習7名、下士官55名、砲手(兼海兵)42名、航海士6名、船員404名、水兵(海兵や戦列歩兵)、船員見習50名、専門職(船医、調理師、等)16名、士官の従者13名、であった。

第一共和政から第一帝政期には規定が改められ、士官が13名(艦長、副長、海尉4名、少尉7名)に増員され、戦時の乗員数は706名(平時562名)となった。

武装

テメレール級は2段の砲列甲板を持ち、下方の甲板には36ポンド砲フランス語版が両舷に14門ずつ装備されていた。この砲は全長3.274m、重量3,520kgで900kgの砲車に載せられていた。1門の砲を操作するのに15人の人員が必要だった。砲弾の重量は17.62kgで装填には約8分を要し、最大射程は3,700mだった。

上方の甲板には18ポンド砲フランス語版が両舷に15門ずつ装備されていた。2つの砲列甲板の高さは1.75mで、士官の個室のある最後部を除く船体の多くを占めていた。

船尾楼甲板には8ポンド砲16門が配置されていた。その後、砲はカロネード砲へと徐々に更新され、砲の配置も何度か変更された。1788年には4門の36ポンド砲が追加された。

帝政期以降、残存していたテメレール級は武装の更新が行われ、船尾楼の14門の8ポンド砲が12門のカロネード砲と2門の12ポンド砲に置き換えられ、上部甲板の18ポンド砲が36ポンド砲に変更された。しかし、これらの数字は艦に搭載できた砲の最大値であり、実戦では砲や砲手の不足により、これより低い数値で運用されていた。

同型艦

テメレール級

造船所:(B) ブレスト、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロン

テメレール級(18隻)
艦名造船所進水略歴出典
テメレールフランス語版
Téméraire
B1782年12月17日1801年11月、退役
1803年、解体
[6]
オーダシュー英語版
Audacieux
L1784年10月28日1801年11月、退役
1803年、解体
[7]
シュペールブフランス語版
Superbe
B1784年10月28日1795年1月30日、ブレスト沖で沈没[8]
ジェネルーフランス語版
Généreux
R1785年6月21日1793年8月、トゥーロンで英国海軍に拿捕(12月にフランスが奪還)
1802年2月、マルタ島で英国海軍に再度拿捕され、英国艦 (HMS Genereux)として再就役
1816年、解体
[9]
コメルス・ド・ボルドーフランス語版
Commerce de Bordeaux
T1785年9月15日1794年1月に「ボネ・ルージュ (Bonnet Rouge)」、2月に「ティモレオン(Timoléon)」に改名
1798年8月、ナイルの海戦で戦没
[10]
フェルム英語版
Ferme
B1785年9月16日1792年10月に「フォション (Phocion)」と改名する。乗員が反乱を起し脱走
1793年1月、トリニダード島でスペイン軍に降伏し、スペイン艦となる
1808年、ラ・グアイラで解体
[11]
フグーフランス語版
Fougueux
L1785年9月19日1805年10月21日、トラファルガーの海戦で英国海軍に拿捕され、10月23日に嵐により沈没[12]
パトリヨート英語版
Patriote
B1785年10月3日1820年5月に除籍
1821年、ハルク化され監獄として使用
1832年後半、解体
[13]
コメルス・ド・マルセイユ英語版
Commerce de Marseille
T1785年10月7日1786年7月「リス (Lys)」と改名
1792年10月「トリコロール (Tricolore)」と改名
1793年8月、トゥーロンで英国海軍に拿捕され12月8日に焼却
[14]
ボレー英語版
Borée
L1785年11月17日1793年1月、退役
1794年4月にフリゲートに改造され「サ・イラ (Ça Ira)」と改名。6月に「アグリコラ (Agricola)」と改名され再就役
1796年、ハルク化され病院となる
1803年、解体
[15]
オリオン英語版
Orion
R1787年4月18日1793年11月に「ミュシウス・スケヴォラ (Mucius Scévola)」、次いで「ミュシウス (Mucius)」と改名
1803年、解体
[16]
レオパール英語版
Léopard
B1787年6月22日1793年2月17日、カリャリ沖で座礁し焼却処分[17]
アントルプレナン英語版
Entreprenant
L1787年10月11日1803年、解体[18]
アンペテュ英語版
Impétueux
R1787年10月25日1794年6月1日、プレリアルの海戦で英軍に拿捕
1794年8月24日、ポーツマスで火災により喪失
[19]
アメリカフランス語版
America
B1788年5月21日1794年6月1日、プレリアルの海戦で英軍に拿捕。「インペテュー (HMS Impetueux)」と改名され再就役
1813年、解体
[20]
アポロン英語版
Apollon
R1788年5月21日1794年2月「ガスパラン (Gasparin)」と改名するが、5月に「アポロン」に戻る
1797年12月「マルソー (Marceau)」と改名
1798年、解体
[21]
デュゲイ=トルーアン英語版
Duguay-Trouin
B1788年10月30日1893年12月、トゥーロン攻囲戦で炎上し沈没[22]
アキロンフランス語版
Aquilon
R1789年6月8日1798年、エジプト遠征に参加。ナイルの海戦で英国海軍に拿捕され「アブキール (HMS Aboukir)」と改名され再就役
1802年、プリマスで解体
[23]

デュケーヌ級

造船所:(B) ブレスト、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロン

デュケーヌ級(40隻)
艦名造船所進水略歴出典
デュケーヌフランス語版
Duquesne
T1788年9月20日1803年6月24日、英国海軍に拿捕され英国艦 (HMS Duquesne) として再就役
1804年、モラント諸島で座礁
1805年、サルベージされ英国で解体
トゥールヴィルフランス語版
Tourville
L1788年12月16日1841年、ブレストで解体
ジュピテー英語版
Jupiter
B1789年11月4日1794年3月「モンタニャール (Montagnard)」と改名
1795年5月18日「デモクラート (Démocrate)」と改名されるが、30日に元の「ジュピテー」に戻る
1797年2月「バタヴ (Batave)」と改名
1807年、ブレストで解体
エオールフランス語版
Éole
L1789年11月15日1806年、マルティニーク沖で座礁・放棄
1816年、ボルチモアで解体
ヴァンジュール英語版
Vengeur
B1789年12月16日1792年12月12日、アジャクシオ沖で座礁し放棄
1793年6月8日、沈没
テゼーフランス語版
Thésée
R1790年4月14日1793年1月7日「レボリュシオン(Révolution)」と改名1803年2月5日「フィニステール (Finisterre)」と改名
1816年、解体
シピオン英語版
Scipion
T1790年7月30日1793年8月、トゥーロンで英国に鹵獲され、英軍指揮下でフランス王党派の艦となる
1793年11月28日、リヴォルノにて焼失
[24]
ジャン・バールフランス語版
Jean Bart
L1790年11月7日1809年4月24日、バスク泊地の海戦英語版で座礁
1809年4月26日、英国軍により焼却
[25]
シュフラン
Suffren
B1791年5月31日1795年5月「ルドゥターブル (Redoutable)」と改名
1805年10月21日、トラファルガーの海戦に参加。ホレーショ・ネルソンを狙撃した弾丸は本艦より放たれた。10月22日、英軍に鹵獲されるが、2日後に沈没
ピュロスフランス語版
Pyrrhus
R1791年8月13日1793年「モンブラン (Mont-Blanc)」に改名
1794年「トレンテ=エ=ウン・メイ (Trente-et-un Mai)[注釈 2]」に改名
1795年「レピュブリカン (Républicain)」に改名
1796年、艦名を「モンブラン」に戻す
1805年11月4日、オルテガル岬の海戦で拿捕され、英軍で再就役 (HMS Mont Blanc)
1811年、火薬運搬船となる
1819年、売却
[26]
テミストクレ英語版
Thémistocle
B1791年9月12日1793年12月18日、トゥーロン攻囲戦で英軍によって焼却[27]
トラジャン英語版
Trajan
L1792年1月24日1797年「ゴーロワ (Gaulois)」に改名
1805年、解体
ティーグル
Tigre
B1793年5月8日1795年6月23日、グロワ島の海戦で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Tigre)
1817年6月、解体
ポンペーフランス語版
Pompée
T1793年5月28日1793年、トゥーロン攻囲戦で英軍に拿捕され再就役 (HMS Pompee)。ポンペイ級を開発の基礎となる
1816年、ポーツマスでハルク化され監獄となる
1817年1月、解体
[28]
ティラニサイドフランス語版
Tyrannicide
L1793年6月28日1800年8月「ドゼー (Desaix)」と改名
1802年1月、サン=ドマング近海で座礁
[29]
ネストールフランス語版
Nestor
B1793年7月22日1797年「シザルパン (Cisalpin)」に改名
1803年「アキロン (Aquilon)」に改名
1809年4月12日、バスク泊地の海戦で英軍に鹵獲され焼却
[30]
ジュマップ英語版
Jemmapes
R1794年1月22日1830年、解体[31]
バラ英語版
Barra
B1794年3月23日1795年「ペガーズ (Pégase)」と改名
1797年「オシェ (Hoche)」と改名
1798年10月12日、英軍に拿捕され「ドニゴール (HMS Donegal)」と改名され再就役
1845年5月、解体
ドロワ・ドロームフランス語版
Droits de l'Homme
L1794年3月24日1797年1月13日の海戦で座礁・放棄[32]
リヨン
Lion
R1794年4月29日1794年「マラー (Marat)」に改名
1795年5月「フォルミダーブル (Formidable)」に改名
1795年6月23日、グロワ島の海戦で英国海軍に拿捕。「べライル (HMS Belleisle)」と改名され再就役
1814年、解体
ワティニー英語版
Wattignies
L1794年10月8日1808年7月、フリュートに改造
1808年9月21日、解体
カサール英語版
Cassard
L1795年5月8日1798年「ディ・ウート (Dix-août)」と改名
1803年2月「ブラーヴ (Brave)」と改名
1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦英語版で英国海軍に拿捕され、4月10日に沈没
ジャン=ジャック・ルソー英語版
Jean-Jacques Rousseau
T1795年7月21日1802年12月2日「マレンゴ (Marengo)」と改名
1806年3月13日の海戦英語版で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Marengo)
1809年、ハルク化され監獄となる
1816年、解体
ヴィアラ英語版
Viala
L1795年9月28日1795年「ヴォルテール (Voltaire)」次いで「コンスティチュシオン (Constitution)」と改名
1803年「ジュピテー (Jupiter)」と改名
1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦でイギリスに拿捕され「メイダ (HMS Maida)」と改名され再就役
1814年、解体のため売却
[33]
エルキュールフランス語版
Hercule
L1797年10月5日1798年4月21日、ラ・ド・サンの海戦で英国海軍に拿捕され「ハーキュリー (HMS Hercule)」と改名し再就役
1810年12月、解体
スパルシャットフランス語版
Spartiate
T1797年11月24日1798年8月2日、ナイルの海戦で英軍に拿捕され「スパルティエイト (HMS Spartiate) 」と改名され再就役
1842年8月、ハルク化され作業船に
1857年5月30日、解体
カトルズ・ジュイエ英語版
Quatorze Juillet
L1798年2月1日1798年4月、就役前に火災で喪失
アルゴノートフランス語版
Argonaute
L1798年12月22日1805年、スペイン海軍へ譲渡され「アルガウノータ (Argaunota)」と改名(就役せず)[34]
ユニヨン英語版
Union
L1799年8月1日1803年「ディオメーデ (Diomède)」と改名
1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦で座礁。2月8日に英軍によって焼却
[35]
デュゲイ=トルーアンフランス語版
Duguay-Trouin
R1800年3月24日1805年11月3日、オルテガル岬の海戦で英国海軍に拿捕され「インプラカブル (HMS Implacable)」と改名・再就役
1943年「フードロイヤント (HMS Foudroyant)」と改名
1949年12月20日、海没処分
エーグルフランス語版
Aigle
R1800年7月6日1805年10月21日、トラファルガーの海戦で英国海軍に拿捕。翌日に乗組員により奪回されるが、嵐に遭い沈没[36]
シピオン (ii)フランス語版
Scipion
L1801年3月29日1805年11月3日、オルテガル岬の海戦で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Scipion)
1819年1月、解体
[33]
ル・エローフランス語版
La Héros
L1801年5月10日1801年、サン=ドマング遠征フランス語版に参加し、トゥーサン・ルーヴェルチュールをフランスに護送した
1808年6月14日、カディスでスペイン軍により拿捕され「エロエ (Heroe)」と改名され再就役
1845年、フェロルで解体
ブルートゥス英語版
Brutus
L1803年1月24日就役前に「アンペテュ (Impétueux)」と改名
1806年8月19日、嵐に遭遇して難破し、9月14日にチェサピーク湾に漂着後、英軍によって焼却
マニャニムフランス語版
Magnanime
R1803年8月13日1820年、解体
リヨン (ii)フランス語版
Lion
R1804年1月12日「グロリュー (Glorieux)」次いで「カサール (Cassard)」と改名(時期不詳)
1809年10月26日、マグローヌの海戦英語版の際にセット付近で座礁し、拿捕を避けるため乗員の手で焼却
[37]
アシレフランス語版
Achille
R1804年11月17日1805年10月22日、トラファルガーの海戦で戦没
レグルス英語版
Régulus
L1805年4月12日1814年4月7日、拿捕を避けるためメシェ=シュル=ジロンド近海で船員の手で焼却[38]
クラジューフランス語版
Courageux
L1806年2月3日1827年、除籍
1831年、解体
アジャクスフランス語版
Ajax
R1806年6月18日1816年、退役
1818年、ハルク化され監獄として使用
[39]
ドーポール英語版
D'Hautpoul
L1807年9月2日1809年4月19日、カリブ海で英国海軍に拿捕。「アバクロンビー (HMS Abercrombie)」と改名され再就役
1817年4月30日、売却
[40]

シュフラン級

1801年、海軍大臣ピエール=アレクサンドル=ローラン・フォルフェフランス語版の命令によりロリアンで建造された2隻の改良型テメレール級。全長が標準的なテメレール級より65cm短縮されている。このタイプの艦は1801年10月にフォルフェが大臣を辞任して以降は建造はされず、ブレストで開始されていた3番艦「パシフィカトゥール (Pacificateue)」の建造も1804年に中止された。

艦名進水略歴
シュフラン英語版
Suffren
1803年9月17日1815年12月9日、除籍
1816年、ハルク化(監獄)
1823年、解体
アルジェジラフランス語版
Algésiras
1804年7月8日1805年、トラファルガーの海戦で拿捕されるが奪回され、カディスに帰還
1808年6月、カディスでスペインに拿捕される
1826年、解体

カサール級

主武装を18ポンド砲から24ポンド砲に換装することを目的に設計に変更が加えられた艦。1793年~1794年にかけてブレストで2隻が起工された。設計に変更が加えられ、標準的なテメレール級よりも全長で約60cm、全幅で約15cmの大型化がなされた。他のテメレール級の艦と異なり、建造は時間をかけて進められ、起工から進水までに約10年が費やされた。この設計改変は不評で、1816年までに24ポンド砲は18ポンド砲に変更され、同じ設計の艦は建造されなかった。

艦名進水略歴出典
カサール英語版
Cassard
1803年9月24日1793年「リヨン (Lion)」として起工
1795年「グロリュー (Glorieux)」と改名
1798年「カサール」と改名
1818年、ハルク化(石炭庫)
1833年、解体
[41]
ヴェテランフランス語版
Vétéran
1803年7月18日1794年「マニャニム (Magnanime)」として起工
建造途中の1798年5月「カトルズ・ジュイエ (Quatorze Juillet)」と改名
1802年「ヴェテラン」と改名
1833年、退役
1842年、解体
[42]

プリュトン級 / アルバネ級

1803年に起工した「プリュトン」から始まる縮小型テメレール級で、公式に小型モデル(petit modèle)と呼ばれた。サネーは、主要なフランスの造船所よりも水深の浅い、フランス支配下の近隣諸国や、フランス帝国に吸収された外国の港(アンヴェルスなど)の造船所で建造するためにこれを設計し、船体は垂線間長54.12m、全長54.89m、全幅14.30mに縮小され、吃水も約23cm低くなった。

造船所:(A) アンヴェルス、(Am) アムステルダム、(F) フレサング、(G) ジェノワ、(Ro) ロッテルダム、(T) トゥーロン、(V) ヴェニス

プリュトン級
艦名造船所進水略歴出典
プリュトンフランス語版
Pluton
T1805年1月18日1808年6月、カディスでスペイン海軍に拿捕される
1810年「モンタニェス (Montañés)」と改名
1814年または1816年、解体
[43]
ボレーフランス語版
Borée
T1805年6月27日1827年、除籍・解体[15]
ジェノワ英語版
Génois
G1805年8月17日1821年8月、トゥーロンで予備艦となり、12月までに解体された[44]
シャルルマーニュ英語版
Charlemagne
A1807年4月8日1814年8月30日、パリ条約によりオランダ海軍に譲渡され「ナッサウ (Nassau)」と改名され再就役
1824年、解体
コメルス・ド・リヨン英語版
Commerce de Lyon
A1807年4月9日1819年2月23日、予備艦
1830年、解体
[10]
アンヴェルソワ英語版
Anversois
A1807年6月7日1814年8月「エオール (Éole)」と改名
1815年3月「アンヴェルソワ」戻され、8月に再び「エオール」となる
1818年、解体
[21]
デュゲクラン英語版
Duguesclin
A1807年6月20日1820年1月11日、解体[45]
セザール英語版
César
A1807年6月21日1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「プリンス・フレデリック (Prins Frederik)」と改名され再就役
1814年、解体
[45]
ヴィル・ド・ベルリン英語版
Ville de Berlin
A1807年9月6日1804年4月、「テゼー (Thésée)」として起工
1807年7月2日「ヴィル・ド・ベルリン」と改名
1814年「アトラス (Atlas)」と改名
1819年2月23日、除籍
[46]
オーダシュー
Audacieux
A1807年9月20日建造中の艦名は「プルスタック (Pulstuck)」
1809年、「プルトゥスク (Pultusk)」と改名
1814年、オランダ海軍に譲渡され「ホラント (Holland)」と改名され再就役
1817年、解体
イリュストル
Illustre
A1807年建造中の艦名は「ダンツィヒ (Dantzick)」
1814年、王政復古により「アシル (Achille)」と改名
1815年、百日天下の際に「ダンツィヒ」に戻されるが、王政府により再度「アシル」と改名
1816年、除籍
ロワイヤル=オランデ英語版
Royal-Hollandais
F1812年2月14日1809年、ワルヘレン戦役英語版でフレサングがイギリスに占領された際に接収
船体はイングランドに運ばれて組み立てられ、1812年「チャタム (HMS Chatham)」として進水
1817年9月10日、売却
[47]
アルバネ級
アルバネ英語版
Albanais
A1808年10月2日1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「バタヴィア (Batavier)」と改名され再就役
1817年、解体
[39]
ブレスラウ英語版
Breslaw
G1808年5月3日1806年「シュペルーブ (Superbe) 」として起工したが進水直前に「ブレスラウ」に改名
1836年、除籍
[48]
ダルマット英語版
Dalmate
A1808年8月21日1814年、王政復古により「エクトル (Hector)」と改名
1815年、百日天下の際に「ダルマット」に戻されるが、王政府により再度「エクトル」と改名
1819年、除籍
[49]
リヴォリフランス語版
Rivoli
V1810年9月6日1812年2月22日、ピランの海戦英語版で英国海軍に拿捕され[50]英国艦 (HMS Rivoli) として再就役
1819年、解体
モン・サン=ベルナルド英語版
Mont Saint-Bernard
V1811年6月9日1814年4月20日、オーストリア軍により焼却
レジェネラトゥール英語版
Régénérateur
V1811年7月1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍により接収・再就役
1823年、フリゲートに改造され「ベローナ (Bellona)」と改名
1831年、解体
[51]
カスティリオネ英語版
Castiglione
V1812年8月2日1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍に譲渡
1814年9月14日、火災により喪失
[52]
ロワイヤル・イタリアン英語版
Royal Italien
V1812年8月15日1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍に譲渡され「レアーレ・イタリアーノ (Reale Italiano)」と改名され再就役
1825年、フリゲートに改造
1838年、解体
[51]
ピエ・アン英語版
Piet Hein
Ro1812年8月15日1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「アドミラール・ピート・ハイン (Admiraal Piet Hein)」と改名され再就役
1819年、解体
[51]
クーロンヌ英語版
Couronne
Am1813年1814年8月1日、艤装前の状態でオランダ海軍に譲渡され「ウィレム1世 (Willem de Eerste)」と改名。オランダ軍によって竣工し就役
1829年、退役・除籍
[53]
モンテベッロ英語版
Montebello
V1815年11月7日1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍により接収
1815年「チェーザレ (Cesare)」と命名され進水
1824 - 1835年の間に除籍
[51]
オーダシュー英語版
Audacieux
Am1816年10月5日1814年8月1日、未完成の状態でオランダ海軍に譲渡され「コアリツィー (Coalitie)」と改名。オランダ軍によって完成し「ヴァッセナール (Wassenaar)」と改名され進水・就役
1827年、スコールルオランダ語版沿岸で座礁
[7]
ポリフェーム英語版
Polyphème
Am1817年7月1814年8月1日、未完成の状態でオランダ海軍に譲渡され「ホラント (Holland)」と改名。オランダ軍によって完成され、進水・就役
1832年、解体
[54]
モンテノッテ
Montenotte
V1815年ロンバルド=ヴェネト王国に譲渡
シトワイヤン
Citoyen
T進水せず1812年、建造中止
アルコル / Arcole
ロンバルド / Lombardo
セメリング / Semmering
V未着工

ダニューブ級

造船所:(A) アンヴェルス、(B) ブレスト、(C) シェルブール、(G) ジェーヌ、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロ

ダニューブ級(25隻)
艦名造船所進水略歴出典
ダニューブ英語版
Danube
T1808年12月21日1827年、退役[55]
ポロネイフランス語版
Polonais
L1808年5月28日1814年4月、王政復古により「リス (Lys)」と改名
1815年3月~7月、百日天下の際「ポロネイ」に戻り、ナポレオン没落後に再度「リス」となる
1822年、ハルク化され倉庫
1825年、解体
トネール英語版
Tonnerre
B1808年6月8日1794年9月22日、起工
1795年「カトルズ・ジュイエ (Quatorze Juillet)」と改名
1808年、名を「トネール」に戻されて進水
1809年4月12日、バスク泊地の海戦英語版で座礁し、拿捕を避けるため乗員の手で焼却
[56]
トリオンファン英語版
Triomphant
R1809年3月31日1828年、廃船
ユルムフランス語版
Ulm
R1809年5月25日1828年、除籍[57]
ゴリマン英語版
Golymin
L1809年12月8日1804年6月4日、「アンフレクシブル (Inflexible)」として起工
1809年「ゴリマン」と改名され進水
1814年3月23日、グレ・ド・ブレストフランス語版で難破
ネストール英語版
Nestor
B1810年5月21日1865年、解体[58]
マレンゴ英語版
Marengo
B1810年10月12日1858年7月21日、除籍
1860~1865年、ハルク化され監獄として使用
11866年「プリュトン (Pluton)」と改名
1875年、解体
トリダン英語版
Trident
T1811年6月9日1854年、輸送船
1858年、ハルク化され兵舎
1873年、解体
[58]
トラジャン英語版
Trajan
A1811年8月15日1829年、解体[59]
アゲムノンフランス語版
Agamemnon
G1812年2月23日1823年、レイジー化され「アンフィトリテ (Amphitrite)」と改名
1829年、退役するがアルジェリア侵攻英語版のため翌年に再就役
1830年1月、退役
1836年、廃船
[60]
ゴーロワ英語版
Gaulois
A1812年4月14日1827年、除籍
1831年、解体
[61]
ロミュラスフランス語版
Romulus
T1812年5月31日1821年、レイジー化され「ゲリエール (Guerrière)」と改名
1830年、解体
ヴィル・ド・マルセイユフランス語版
Ville de Marseille
T1812年8月15日1858年、兵舎ハルク
1877年、解体
[62]
シピオンフランス語版
Scipion
G1813年9月5日1846年、除籍
オリオン英語版
Orion
B1813年10月9日1829 - 1839:海軍兵学校練習艦
1841年、解体
[16]
デュゲイ=トルーアン英語版
Duguay-Trouin
C1813年11月10日1824年、除籍[63]
コロス英語版
Colosse
T1813年12月5日1821年、レイジー化され「パラス (Pallas)」と改名
1827年、損傷
1840年、除籍され解体
シュペールブフランス語版
Superbe
A1814年7月5日1833年12月15日、難破
ブリアン英語版
Brllant
G1815年4月18日1814年4月18日、英国海軍に接収され、英国艦「ジェノア (HMS Genoa)」として進水・就役
1838年1月、プリマスで解体
[40]
エルキュール英語版
Hercule
T1815年5月26日1815年7月「プロヴァンス (Provence)」と改名
1855年12月31日、除籍され病院ハルク
1881年、解体
デュク・ド・ベリー英語版
Duc de Berry
R1818年6月18日進水前に「グロリュー (Glorieux)」と改名
1831 - 1834年、58門フリゲートに改造され「ミネルヴ (Minerve)」と改名
1865年「アベ・ヴラーソ (Aber Wrac'h)」と改名
1853年、廃船
1874年、解体
ジャン・バール英語版
Jean Bart
L1820年8月15日1833年、解体[25]
トリトン英語版
Triton
R1823年9月22日1824年1月「ヴェニシアン (Vénitien)」として起工
1823年「トリトン」と改名され進水
1870年代までに廃船
[64]
ジェネルー英語版
Généreux
C1831年9月23日1851年、監獄ハルク化
1865年、解体

1808年~1813年にかけて、当時フランスの傀儡政権下にあったナポリ王国で、ダニューブ級の設計を流用した船がカステッランマーレ・ディ・スタービアで建造された。3隻が発注され、2隻が完成・就役したが、1813年11月にナポリ王国がナポレオン陣営を離脱したため3隻目は起工されなかった。

艦名進水略歴出典
カプリイタリア語版
Capri
1810年8月21日1847年、退役・解体[58]
ジョアッキーノイタリア語版
Gioacchino
1812年8月1日1820年5月10日、火災により損壊
1821年、解体のため売却
[65]

ギャラリー

脚注

注釈

出典

参考文献

  • Boudriot, Jean (1975) (フランス語). Le Vaisseau de 74 canons.. Archéologie navale française (Éditions des Quatre Seigneurs ed.). Grenoble. pp. 279. OCLC 461754938 , probablement l'ouvrage le plus abouti sur ce sujet.
  • Demerliac, Alain (2004) (フランス語). La Marine du Consulat et du Premier Empire: Nomenclature des Navires Français de 1800 à 1815. Éditions Ancre. ISBN 2-903179-30-1 
  • James, William (2002). The Naval History of Great Britain, Volume 4, 1805–1807. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-908-5 
  • Roche, Jean-Michel (2005). Dictionnaire des bâtiments de la flotte de guerre française de Colbert à nos jours (Vol 1: 1671 – 1870). ISBN 978-2-9525917-0-6. OCLC 165892922 
  • Winfield, Rif (2008). British Warships in the Age of Sail, 1793–1817: Design, Construction, Careers and Fates. Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84415-717-4 
  • Winfield, Rif & Roberts, Stephen S. (2015). French Warships in the Age of Sail 1786–1861: Design, Construction, Careers and Fates. Barnsley, UK: Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84832-204-2 
  • Winfield, Rif & Roberts, Stephen S. (2017). French Warships in the Age of Sail 1626–1786: Design, Construction, Careers and Fates. Barnsley, UK: Seaforth Publishing. ISBN 978-1-4738-9351-1 

関連項目

外部リンク

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