ドミンゴ・マルティネス

ドミニカ共和国の野球選手 (1965 - )

ドミンゴ・エミリオ・マルティネス・ラフォンタイン(Domingo Emilio Martínez Lafontaine、1965年8月4日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

ドミンゴ・マルティネス
Domingo Martínez
トロント・ブルージェイズ時代
(1988年)
基本情報
国籍ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地首都地区サントドミンゴ
生年月日 (1965-08-04) 1965年8月4日(58歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手左翼手
プロ入り1984年 アマチュアFA
初出場MLB / 1992年9月11日
NPB / 1997年4月5日
最終出場MLB / 1993年10月3日
NPB / 2001年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

愛称は「マルちゃん」。西武時代は、年齢を2歳若くサバ読みしていた[1]

2006年から中日ドラゴンズの外国人選手のスカウトを担当している。

来歴

西武時代

1996年12月18日に新外国人として西武ライオンズへの入団が発表された[2]。背番号は60・年俸8,000万円の1年契約で[2]、同年限りで巨人FA移籍した清原和博に代わって中軸を打てる選手と期待された。

第1戦こそ無安打だったものの、第2戦に本塁打を放ち幸先のいいスタートを飾ったかに見えたが、キャンプ・オープン戦でも不安視されていた守備面を気にしすぎたあまり打撃に影響が出てしまい、4月27日には平凡なフライを落球したことによって、以後優勝が決まるまですべて指名打者となった。しかし、4月下旬にマルティネスの妻子が来日しポジションも「5番・指名打者」に固定されると自慢の打力が目を覚まし勝負強い打撃でチームを牽引した。「マルちゃん」のニックネームをつけられチームの人気者となり、打席に入ると観客席から「マルちゃん」コールが入っていた。1997年には指名打者として3割30本100打点を達成してベストナインに選出されている。1997年の日本シリーズでは、当時共にクリーンナップを打っていた髙木大成鈴木健と守れるポジションが重なり、左翼手を守ることも検討されたが、あまりの守備のひどさに西武首脳陣は断念したという。結局、この年に守備についたのは、9月8日だけであった(総力戦となって捕手が足りなくなり、一塁手の髙木大成が捕手に回ったことによって、指名打者を外して一塁手についたもの)。翌1998年の日本シリーズでは、DH制のない第1、2、6戦では、すべて代打での登場であった。シリーズ終了後、2年連続で30本塁打、90打点を挙げたのにもかかわらず、走れない、守れない、そしてチームを若返りさせることを理由に同年11月24日西武を解雇された。しかし、マルティネスの退団以降西武は出てくる外国人選手の不振が続き、2000年に来日したトニー・フェルナンデスは打率こそ高打率であったが長打が期待できず、2001年のアレックス・カブレラスコット・マクレーンの登場まで毎年長距離打者不在に悩まされた。

普段は温厚な性格だが、1998年5月19日の日本ハム戦(東京ドーム)において、芝草宇宙からデッドボールを受けると激昂して芝草に突進して乱闘を起こし、暴力行為で退場処分を受けている。これはマルティネスが打席に入る前に、日本ハムベンチにいたジェリー・ブルックスナイジェル・ウィルソンから「今度は(死球)行くぞ」「ぶつけろ」という内容の野次を英語で浴びせられ、本当に死球を受けたことで感情が一気にたかぶったとされており、この試合後に監督の東尾修は「普段おとなしくて温厚なマルちゃんがあれだけ怒るんだから、ひどいことを言われたんだよ」とコメントしている[3]。車を持っていなかったため、ホームゲームでは西武ライオンズ球場西武鉄道を使い電車通勤をしていた。

好調時と不調時のフォームをビデオで熱心に見比べており[4]、当時西武の打撃コーチだった土井正博は「こんな研究熱心な外国人選手は珍しい」と語っていた[4]

巨人時代

西武退団後の翌1999年リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでプレーしていたが[5]、打線の迫力不足に悩んでいた巨人がシーズン途中の5月27日に獲得を発表し、6月4日に入団会見が行われた(同年の巨人は、当初「純国産打線」を方針に掲げていたため、外国人野手は一切獲得していなかった)。最初は代打で7打席無安打と不振が続いたものの、同年6月19日の対阪神戦(東京ドーム)で、レフトでのスタメンで起用されると、ダレル・メイから2打席連続の本塁打を放つなど、これをきっかけに活躍し、同年は不振と故障に喘いだ清原に代わり、4番・ファーストに入ることも多かった。このレフトでのスタメン起用については、試合前に長嶋監督の直感で急に決まったものであり、試合前の練習機会もない起用であった[6]。また、メジャー・マイナーを通じて外野を2試合しか守ったことがなかった。

7月10日の対広島戦で満塁の場面で左翼ポール際の本塁打かファウルかという大飛球を打った際に、本塁ベース上で小首を傾げ、右手をまるで招き猫のようなポーズをとって打球の行方を見ていた。そして本塁打と判定され、ヘルメットがずり落ちるほどにガッツポーズをとった。このシーンはよく同年の珍プレーで題材にもなった。また、その場面が写った野球カードもある。

2000年も前半負傷の清原の穴を埋めミレニアム打線の5番打者として定着、6月終了時点で17本塁打を放っていたが、清原が復帰すると間もなくベンチ要員となり、自身も下降線を辿って7月以降の本塁打は0であった。この年のオールスターゲームにファン投票で初選出されるも、出場を辞退[7]。翌2001年は清原の復活に伴い、出場が減り、オフに契約年数が切れたため退団。

巨人退団後

再度アメリカ球界を経て、2006年から中日ドラゴンズの外国人スカウトに就任した。西武時代にコーチだった森繁和の要望でもあった。森も中日コーチになってからはドミニカに渡って外国人選手の調査などしており、マルティネスが加わったことで現地出身の選手を多く輩出している[8]。なお、森がチームを一旦去った2012年と2013年も、マルティネスは中日に残ってスカウトを続けており、実際に2012年オフにドミニカ出身のエクトル・ルナを獲得している。

人物

山田哲人の幼少期の憧れは巨人時代のマルティネスだったとされる[9]

巨人時代は清原とのレギュラー争いを各マスコミが煽ったが、マルティネスは「私は代打でもいいし、清原選手が代打で、自分がスタメンでもいい。それは監督が考えて使うこと」「個人の記録は関係ない。優勝のために全力を尽くすだけ」と大人の対応をしていた[10]

スカウトに就任してからはトニ・ブランコエクトル・ルナといった有望な選手を発掘しており、「日本のプロ野球の練習は本当にきつい。ドミニカ人が適応するにはメンタルの強さが必要だ。そういう選手を探し出している」という言葉を残している[11]

2019年4月にフルカウントのインタビューに応じ、「日本最終年の2001年以来行っていないんだ。機会があれば是非また行きたいね。」と語っている。日本に居た時代にすごいと思った投手は上原浩治西口文也工藤公康、すごいと思った打者は鈴木健松井秀喜高橋由伸江藤智前田智徳緒方孝市の名前を挙げている[12]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1992TOR7882500183000000010.625.6251.0001.625
1993815142400173000010070.286.333.500.833
1997西武13055848863149241312681083005619410318.305.384.549.933
19981335634916513916130247954408596510121.283.361.503.864
1999巨人8329126231851401614756100224135512.324.385.561.946
200011134832042921611716164000421336512.288.333.503.836
20018114713513326010682710021020376.237.286.504.789
MLB:2年15232249002156000010080.409.435.6821.117
NPB:5年5381907169621449776310489135094021175211536169.293.360.525.886

年度別守備成績



一塁(1B)三塁(3B)
























1992TOR7120021.000-
19937254021.00010000----
MLB14374041.00010000----

表彰

記録

NPB

背番号

  • 19 (1992年)
  • 5 (1993年)
  • 60 (1997年 - 1998年)
  • 48 (1999年 - 2001年)

脚注

関連項目

外部リンク