ニュー・ライン・シネマ

アメリカの映画スタジオ

ニュー・ライン・シネマ(New Line Cinema)は、アメリカの映画製作スタジオであり、ワーナー・ブラザースのレーベルである。1967年のロバート・シェイによって独立映画配給会社として設立され、後に映画スタジオとなった。1994年にターナー・ブロードキャスティング・システムに買収される。ターナーは1996年にタイム・ワーナー(2018年から2022年はワーナーメディア、そして2022年からはワーナー・ブラザース・ディスカバリー)と合併し、ニュー・ラインは2008年にワーナー・ブラザース・ピクチャーズと合併した[3]

ニュー・ライン・シネマ
New Line Cinema
種類
子会社
業種映画製作
設立1967年6月18日 (56年前) (1967-06-18) アメリカ合衆国ニューヨークにて
創業者ロバート・シェイ
本社アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州バーバンク 4000 ワーナー・ブールバール
主要人物
所有者ワーナー・ブラザース・ディスカバリー
親会社ワーナー・ブラザース
ウェブサイトwww.warnerbros.com/company/divisions/motion-pictures#new-line-cinema ウィキデータを編集
Footnotes / references
[1][2]

歴史

ニュー・ライン・シネマは、当時27歳のロバート・シェイによって1967年に映画配給会社としてアメリカ合衆国にて大学キャンパスへの外国映画やアート映画の配給のための映画配給会社として設立された。シェイはニューヨーク市の14ストリートの彼の賃貸住宅の中と、セカンド・アヴェニューにニュー・ラインのオフィスを開いた。会社の初期の成功のひとつは、1936年の反大麻プロパガンダ映画『リーファー・マッドネス 麻薬中毒者の狂気』であり、1970年代初期のアメリカの大学キャンパスにてカルト的ヒットとなった。ニュー・ラインはまた、『今のままでいて』、『インモラル物語』、そして『ハンカチのご用意を』(この作品はオスカーを受賞した最初のニュー・ライン映画となった)のような多くの第一流の外国語映画を公開した[4]。スタジオはまた、ジョン・ウォーターズの映画の多くを公開している。

1974年には千葉真一主演日本映画激突! 殺人拳』を「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と評して興行権を買い取り、同作を『The Street Fighter』というタイトルで同年11月12日からセントルイスアトランタニューオーリンズワシントンD.Cなど、主にアメリカ合衆国中南部の都市18館で封切公開した[5]。ロバート・シェイはこの時、千葉を「Sonny Chiba(サニー千葉)」とネーミングしている[6][注釈 1]。封切りされるや同時期に上映されていたパニック映画エアポート'75』、『オデッサ・ファイル』、ミュージカル映画星の王子さま』などの大作を押さえ、3週間でベスト5に躍り出て、千葉の代表作の一つとなった[5][6][8]。そして『The Street Fighter』は、アメリカ合衆国で最も権威のある総合情報週刊誌『Variety』が、日本映画を初めて掲載した作品にもなった[5][6][8]。この成功により1975年1月下旬からは、ブロードウェイのRKO劇場やマンハッタンでも上映された[5]。過去の日本映画で比較的入ったといわれる『砂の女』や、ニューヨーク・タイムズなどの批評欄をにぎわした黒澤明作品でさえ、アートシアター系で上映された程度であった[5]

1976年、ニュー・ラインは最初の長編映画『スタントマン殺人事件』(1977年)、マーク・L・レスター監督の資金を確保した。批評的に成功しなかったのにもかかわらず、映画は国際市場とテレビにて良い商業的成功を収めた[9]

1980年、シェイの法科大学院の同級生のマイケル・リンが会社の外部弁護士と顧問になり、会社の負債の再交渉をした[4][10]

1983年、『悪魔のいけにえ』の元の配給を行ったブライアンストン配給会社は、この映画の権利を失い、権利は元の所有者に戻った。ニュー・ラインはこの権利を購入し、同年に映画館にて再公開し、スタジオにとって大成功となった[11]

ニュー・ラインは、1980年代初期も映画製作を拡大し、ジョン・ウォーターズ監督の『ポリエステル』、『ジャンク・イン・ザ・ダーク』を含む製作または共同製作を行った。『ポリエステル』は、 観客に映画の特定の時間に引っかいたり嗅いだりできる「スクラッチ&スニフ」カードのセットが配られ、見た映像に感覚的なつながりを追加した「オドラマ」と名付けられた目新しい映画体験を紹介した最初の映画の一つである[9]。1983年、シェイは役員会に参加した。1984年、ドーン・アルティンとジェフ・ヤングスはニュー・ラインに加入し、新しい計画の配給のためそれぞれニュー・ライン・デストリビューションの東部西部部門の販売管理者とスタジオの全国的な印刷管理者となった[12]

エルム街の悪夢

エルム街の悪夢』は、1984年にニュー・ラインによって製作と公開された。結果として生じたフランチャイズは、ニュー・ラインの最初の商業的に成功したシリーズとなり、会社は「フレディの建てた家」と呼ばれた。映画は180万ドルの製作費で作られ、5700万ドル以上の収入を上げた[13]。1年後、『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』は公開され、最初の3日間で330万ドルの収入を上げ、アメリカの興行収入は3000万ドルを超えた1986年、会社は公開会社となり、1,613,000株の普通株を保有した[4][14]。その年、ニュー・ラインはスタジオの制限ごとに年間12本の映画を公開する計画をして、配給ネットワークを改修し、スタジオに向けて作られた3から5作の購入だけでなく、5から7作の社内製作を目指した[15]

1986年7月30日、スタジオはエンバシー・コミュニケーションズと提携を結び、一方、エンバシーは5タイトルのニューラインのカタログをオフネットシンジケーションに配給することになった[16]。1987年6月10日、ニュー・ライン・シネマはユニバーサル有料テレビジョンと提携を結び、有料テレビジョン用に11作を受け取る契約となり、この協定は、1000万ドル超過の重要な最低度数を提供し、HBO/シネマックスとShowtime/ザ・ムービー・チャンネルなど、ユニバーサルに提供された会社にライセンス契約を並べるもの[17]。1980年代後半には、新しい国際部門ニュー・ライン・インターナショナルを設立し、1987年にMIFEDのスクリーンでデビューするアンドリュー・ミルナーによって率いられた[18]

シリーズの3作目、『エルム街の悪夢3 惨劇の館』は、1987年にスタジオの最初の全米公開された。オープニングは1位、週末の興行収入は当時の自主映画としては記録的な890万ドル[19]、その後、全米興行収入は約4500万ドルとなった。さらに6作が製作された。最初の6作の世界中の興行収入は5億ドル、その次の3作は2億5千万ドルで、合計7億5千万ドルとなった[13]

ミュータント・タートルズ

1990年、リンは社長と最高執行責任者となり、シェイは会長と最高経営責任者となった[20]。同じ年、ニュー・ラインは米国とカナダで『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)に抜かれるまで史上最高の1億3500万ドルの興行収入を上げる『ミュータント・タートルズ』を公開した[21][22][23]。その後、米国とカナダで2番目に高い[24]7,800万ドルの興行収入を記録した続編の『ミュータント・ニンジャ・タートルズ2』(1991年)が続き[25]、3作目の『ミュータント・ニンジャ・タートルズ3』は1993年に公開された。

発展

1990年12月、ニュー・ラインはテレビジョン制作会社RHIエンターテインメント(現:ソナー・エンターテインメント)の52%の株式を購入。1994年にホールマーク・カーヅに売却した。

1991年初頭、完全子会社ファイン・ライン・フィーチャーズは、ジェーン・カンピオンの『エンジェル・アット・マイ・テーブル』とガス・ヴァン・サントの『マイ・プライベート・アイダホ』などの映画を公開した[26]。1997年、『シャイン』がスタジオ最初のアカデミー賞作品賞にノミネートされ[27]ジェフリー・ラッシュアカデミー賞主演男優賞を受賞し、スタジオにとって2作目のアカデミー賞受賞となった[28]

1991年5月。ニュー・ラインはスルタン・エンターテインメント・ホールディングス(別名ネルソン・エンターテインメント・グループ)によって所有されていた600作の家庭用ビデオと海外での権利を購入した。この契約には、ターナーの子会社であるキャッスル・ロック・エンターテインメントとの11作の配給契約も含まれていた。1991年11月27日、ニュー・ラインはスルタンを完全に買収した[29][30]

1992年、マイケル・デ・ルカが副社長と製作部門の最高経営責任者になった[31]

ターナーとタイム・ワーナーによる買収

1994年1月28日、ニュー・ラインはターナー・ブロードキャスティング・システムによって5億ドルで買収され[32][33]、1996年にターム・ワーナーに合併された。兄弟スタジオのターナー所有のハンナ・バーベラ・プロダクションキャッスル・ロック・エンターテインメントが最終的にワーナー・ブラザースの部門となった間も、ニュー・ライン・シネマは自身を独立体として維持した。

ワーナー・ブラザースから独立した組織としてあった間、ニュー・ライン・シネマは劇場配給、マーケティング、ホームビデオなどを含むいくつかの部門を運営を続けた。

D.N.A./ドクター・モローの島』、『ロング・キス・グッドナイト』の損失の後、会社の業績は1996年に傾いた[10]

ロード・オブ・ザ・リング

ニュー・ラインは現在までに最も成功した映画となった『ロード・オブ・ザ・リング』映画三部作を製作し、興行収入は世界で29億ドルを超えている[4]。映画はアカデミー賞でそれぞれの作品の作品賞ノミネートを含む30ノミネートされ、17受賞し、最終作の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)は、作品賞を含む過去最高(タイ)の11部門を受賞し[4][34]、公開当時、史上2番目に高い興行収入を記録した[35]

『ロード・オブ・ザ・リング』映画の成功にもかかわらず、『フォルテ』(2001年)は1億ドルの損失を出し、デ・ルカは製作責任者の座を離れ、トビー・エメリックが取って代わった[10]。2001年、シェイとリンは共同会長と共同CEOになった[4]

スタジオはまた、2005年にピクチャーハウスと名付けられた新しい配給会社を設立した際、共同経営者となった。自主映画を専門とするピクチャーハウスは、配給会社ニューマーケット・フィルムズを離れたボブ・バーニー、自社部門ファイン・ラインをピクチャーハウスに統合したニュー・ライン、HBOの部門HBOフィルムズと、劇場用映画事業への参入に興味を持っていたタイム・ワーナーによって形成された。

ワーナー・ブラザースとの統合

2008年2月28日、当時のターム・ワーナーのCEOジェフ・ビュークスは、独立運営スタジオとしてのニュー・ラインを閉鎖することを発表した。シェイとリンは、社員への手紙と共に退任すると語った。しかしながら、自社の映画の資金調達、製作、マーケティング、配信業務は継続するタイム・ワーナーとジェフリー・ビュークスとともに継続する一方、、例年より少ない数の映画の公開を、ワーナー・ブラザースの一部として、そしてより小さなスタジオとして行うことを約束した[36]。『ライラの冒険 黄金の羅針盤』の失望的な興行収入が、この決定に大きく影響しており、ニュー・ラインはこの開発に1億8000万ドルを費やしたが、米国市場で7000万ドルのみの収入になった[37]。3月、エメリックは社長兼最高執行責任者となり、創業者のロバート・シェイとマイケル・リンはともに会社を離れた。

2008年5月8日、ピクチャーハウスが秋に閉鎖されることが発表された[38]。バーニーは後にピクチャーハウスの商標を購入し、2013年に会社を再スタートさせた[39]

ニュー・ラインは、長く本社あったロサンゼルスのロバートソン大通りから、2014年6月にかつてワーナー・ブラザースの映画共同出資社であったレジェンダリー・エンターテインメントに使われていたワーナー・ブラザースの撮影所ビルディング76に移転した[40]。独立企業としてのニュー・ライン・シネマが公開した最後の作品は、ウィル・フェレルの『俺たちダンクシューター』である。

会社の将来について、統合当時のワーナー・ブラザース社長アラン・ホルンは、「予算の数字は要求されていない。年間約6作を予定しているが、4から7作になるかもしれないが、10作にはならない」、内容についてはニュー・ラインはジャンルだけにとどまらない」、「特定の種類の映画を作る義務もない」と述べた[41]

映画

映画シリーズ

タイトル公開日映画数備考
死霊のはらわた1981–20232ワーナー・ブラザース・ピクチャーズとの共同製作
エルム街の悪夢1984–現在9
クリッター1986–92(2019)4(5)
悪魔のいけにえ1990–20063
ハウス・パーティ1990–現在5
ミュータント・タートルズ1990–93320世紀フォックスとの共同製作
13日の金曜日1993–20094
マスク1994–20052ダークホース・エンタテインメントとの共同製作
Mr.ダマー1994–2003(14)2(3)ユニバーサル・ピクチャーズとの共同製作
フライデイ1995–現在3
モータル・コンバット
オースティン・パワーズ1997–2002
ブレイド1998–2004マーベル・エンターテインメントとの共同製作
ラッシュアワー1998–2007
ファイナル・デスティネーション2000–現在5
ザ・セル2000–092
ロード・オブ・ザ・リング2001–033
ハロルド&クマー2004–11
セックス・アンド・ザ・シティ2008–102
モンスター上司2011–14ワーナー・ブラザース・ピクチャーズとの共同製作
ホビット2012–143
死霊館ユニバース2013–現在8
クリード2015–182
IT/イット2017–19
シャザム!2019–233DCフィルムズとの共同製作

ニューラインシネマ興行収入TOP25映画(世界)

順位タイトル世界興行収入備考
1ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還*2003$1,142,456,987
2ホビット 思いがけない冒険2012$1,017,003,568ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・ピクチャーズと共同製作
3ホビット 竜に奪われた王国2013$958,366,855
4ホビット 決戦のゆくえ2014$956,019,788
5ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔*2002$943,396,133
6ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)*2001$888,159,092
7IT/イット “それ”が見えたら、終わり。2017$701,796,444ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; ダブル・ドリーム、ヴァーティゴ・エンターテインメント、ライドバックと共同製作
8カリフォルニア・ダウン2015$473,990,832ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズと共同製作
9IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。2019$473,093,228ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; ダブル・ドリーム、ヴァーティゴ・エンターテインメント、ライドバックと共同製作
10セックス・アンド・ザ・シティ2008$418,765,321ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; HBOフィルムズと共同製作
11ライラの冒険 黄金の羅針盤2007$372,234,864
12シャザム!2019$365,971,656ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; DCフィルムズと共同製作
13死霊館のシスター2018$365,550,119ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給; アトミック・モンスター・プロダクションズ、ザ・サフラン・カンパニーと共同製作
14マスク1994$351,583,407
15ラッシュアワー22001$347,325,802
16死霊館 エンフィールド事件2016$321,788,219
17死霊館2013$319,494,638ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給
18オースティン・パワーズ:デラックス1999$312,016,928
19アナベル 死霊人形の誕生2017$306,515,884ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給
20オースティン・パワーズ ゴールドメンバー2002$296,938,801
21ウェディング・クラッシャーズ2005$288,467,645
22なんちゃって家族2013$269,994,119ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給
23ラッシュアワー32007$258,097,122
24アナベル 死霊館の人形2014$257,579,282ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって配給
25ジム・キャリーはMr.ダマー1994$247,275,374

ニューラインシネマ日本興行収入10億円以上の番組

順位作品名公開年興行収入配給[42]
1ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還2004103.2億円松竹/日本ヘラルド
2ロード・オブ・ザ・リング200290.7億円
3ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔200378.0億円
4セブン199645.1億円ギャガ/ヒューマックス
5ライラの冒険 黄金の羅針盤200837.5億円松竹/ギャガ
6アイ・アム・サム200234.6億円松竹/アスミック・エース
7マスク199530.6億円ギャガ/ヒューマックス
8IT/イット “それ”が見えたら、終わり。201722.0億円ワーナー
9ラッシュアワー199920.4億円ギャガ/ヒューマックス
10IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。201918.4億円ワーナー
11セックス・アンド・ザ・シティ200818.0億円ギャガ
12ホビット 思いがけない冒険201217.5億円ワーナー
13セックス・アンド・ザ・シティ2201017.4億円
14ラッシュアワー2200117.0億円松竹/ギャガ
15ホビット 決戦のゆくえ201416.5億円ワーナー
1613デイズ200115.1億円日本ヘラルド
17ホビット 竜に奪われた王国201314.1億円ワーナー
18マスク2200514.0億円ギャガ/東映
19オースティン・パワーズ ゴールドメンバー200211.0億円ギャガ/ヒューマックス

関連項目

脚注

注釈

出典

外部リンク