パウル・クレツキ

パウル・クレツキポーランド語: Paweł Klecki; Paul Kletzki、1900年3月21日 ウッジ - 1973年3月5日)は、ポーランド指揮者作曲家

パウル・クレツキ
1965年
基本情報
生誕 (1900-03-21) 1900年3月21日
出身地ロシア帝国の旗 ロシア帝国ウッジ
死没 (1973-03-05) 1973年3月5日(72歳没)
学歴ワルシャワ大学
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家

略歴

地元のオーケストラに15歳で加わる。第一次世界大戦後にワルシャワ大学哲学を学んでから、1921年ベルリンに留学した。クレツキの作品は1920年代にトスカニーニフルトヴェングラーによって擁護された。1925年にフルトヴェングラーに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。

ナチスが政権を掌握するとユダヤ系のためにヴァイマル共和国から離れざるを得なくなり、1933年イタリアに行くが、ファシスト政権の反ユダヤ主義政策のためにソ連に逃れる。しかし今度は1936年スターリンの大粛清を逃れて、スイスへの亡命を余儀なくされた。

クレツキの最も有名な作品《交響曲第3番「イン・メモリアム」》は、1939年10月に作曲され、ナチスの犠牲者のための墓碑として、哀調を帯びた作品にまとめられている。1942年以降は作曲を辞めた。ナチスによって精神を破壊され、作曲の意志を損なわれたと本人が認めているように、両親や姉妹を含む肉親を、ホロコーストによって殺害されていたのである。

第二次世界大戦後は指揮者として、とりわけベートーヴェンマーラーの解釈で著名であった。1958年から1961年までダラス交響楽団の首席指揮者を務め、1966年から没年の1973年まで、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督を務めた。日本では日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。

文献

  • Friedrich Blume (Hrsg.) Die Musik in Geschichte und Gegenwart. 1. Auflage, 1949-1986

脚注


先代
ヒューゴ・リグノルド
ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
音楽監督
1954年 - 1955年
次代
エフレム・クルツ
🔥 Top keywords: メインページ宮崎麗果特別:検索豊後水道松本忠久土居志央梨若葉竜也能登半島地震 (2024年)田中雄士長谷部誠井上道義The GazettE若林志穂服部百音黒木啓司REITA虎に翼平井理央出口夏希サーブ (盲導犬)三鷹事件セウォル号沈没事故白眞勲三淵嘉子高橋克也 (オウム真理教)ME:Iルーシー・ブラックマン事件佐藤ありさ杉咲花蜜谷浩弥水野真紀亀井亜紀子 (政治家)熊本地震 (2016年)水原一平井川意高中川安奈 (アナウンサー)内藤剛志いなば食品YOSHIKI