フランクリン (空母)

フランクリンUSS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8)は、アメリカ海軍航空母艦エセックス級航空母艦としては8番目に就役した。その名を持つ艦としては5隻目。艦名はベンジャミン・フランクリンに因んで命名された前の4隻を引き継いだ。

フランクリン
1944年2月21日の艦影
1944年2月21日の艦影
基本情報
艦歴
起工1942年12月7日
進水1943年10月14日
就役1944年1月31日
退役1947年2月17日
除籍1964年10月1日
その後1966年にスクラップとして売却
要目
基準排水量27,100トン
満載排水量36,380トン
全長872 ft
水線長820 ft
最大幅147 ft 6 in
水線幅93 ft
吃水満載:34 ft 2 in
最大速力33ノット
航続距離20,000海里(15ノット時)
乗員士官、兵員 2,600名
兵装
  • 連装38口径5インチ砲4基
  • 単装38口径5インチ砲4基
  • 56口径40mm4連装機関砲8基
  • 単装78口径20mm機関砲46基
搭載機90 - 100機
その他エレベーター:中央2基、舷側1基
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「ビッグベン(Big Ben)」の愛称で呼ばれた「フランクリン」は、第二次世界大戦で何度も損傷を受けながらも戦い抜いた艦のひとつである[1]。特に、1945年3月の九州沖航空戦において、日本機の爆撃により大破しながらも沈没を免れ、アメリカ本国に帰還したエピソード(後述)はゲイリー・クーパーが主演した1949年の映画『機動部隊』(Task Force英語版)でも描かれている。

就役

「フランクリン」はバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で1942年12月7日に起工し、1943年10月14日にミルドレッド・H・マカフィー英語版少佐によって命名、1944年1月31日にジェームズ・J・シューメイカー艦長の指揮下就役した[2]。艦の乗員の中には当時徴兵されていたプロミュージシャンのサクシー・ドーウェル英語版ディーン・キンケード英語版がおり、艦のバンドメンバーであったが彼らはくじによって「フランクリン」に配属されていた[3]

「フランクリン」はトリニダード島へ調整航海を行い、第27.7任務群に配属。演習訓練に参加のためサンディエゴへ向けて出航した。6月には第58.2任務群の一部となり、エニウェトク環礁へ向けて真珠湾経由で出港した。なお、この時までに艦橋の改装工事(前方の40mm機銃座の撤去および艦橋容積の拡張)を受けるとともに、迷彩塗装を左舷のみ変更している[4][5]

小笠原、マリアナ諸島攻略

1944年5月の艦影

1944年6月末、「フランクリン」は小笠原諸島攻略部隊に配属される。同部隊はマリアナ諸島攻略部隊の支援部隊であった。7月4日に硫黄島父島母島に対する攻撃が始められ、「フランクリン」の艦載機は対地攻撃を行い、港に停泊する大型輸送艦を撃沈、三隻の小型船舶を破壊した。

7月6日に「フランクリン」はグアムロタ島に対する攻撃を行う。第一陣攻撃部隊の安全な上陸を可能とするために21日まで直接攻撃を継続した。サイパンで二日間の補給を受け、第58機動部隊と行動を共にし、パラオへの偵察写真撮影と航空攻撃を行う。「フランクリン」の艦載機は25日と26日に作戦活動を行い、敵機および地上建造物、船舶への打撃を与えた。7月28日には部隊を離れサイパンへ向かい、第58.1任務群に配置転換される。

8月4日には再び小笠原諸島に対して攻撃を行う。「フランクリン」の艦載機は父島、弟島の無線所、水上機基地、応急滑走路、船舶に対して攻撃を行った。

8月9日から28日までエニウェトクで休養した後、「フランクリン」は空母「エンタープライズ」、「ベロー・ウッド」および「サン・ジャシント」と共に出発。8月31日から9月2日までフランクリンは多くの対地攻撃、二隻の貨物船を撃沈、敵機を多数撃墜し、写真調査も行った。

ペリリュー島攻略

9月4日、「フランクリン」はサイパンで補給を受け、ヤップ島攻略(9月3日 - 6日)を行う第38.1任務群の一部として出港した。15日にはペリリュー島攻略のために航空支援を行い、同部隊は9月21日から25日までマヌス島で補給を受けた。

「フランクリン」は第38.4任務群の旗艦としてパラオ海域へ戻り、連日偵察機と夜間戦闘機を飛行させる。10月9日、レイテ島攻略のための空母部隊と合流する。

台湾沖航空戦、レイテ沖海戦

1944年10月30日、「ベロー・ウッド」とともに特攻機の突入を受ける

10月13日早朝、台湾への航空攻撃を実施していた際、4機の爆撃機による攻撃を受けた。「フランクリン」は二発の魚雷をかろうじて回避したが、敵機のうち一機は体当たりを試みた。敵機は「フランクリン」の後部デッキに衝突し、艦橋と飛行甲板を横切り船体右舷の海上に落下した。プロペラでデッキの数箇所が削られ、一部の対空火器は一時的に使用不能となったが、損害は軽微だった。

14日午前、「フランクリン」の艦載機はアパリ英語版ルソンへの攻撃を行う。レイテ島攻略に先立って敵の抵抗を一掃するためであった。15日にマニラ地域の敵飛行場への航空攻撃を実施していた際、「フランクリン」は日本海軍機三機による攻撃を受け、そのうち一機はサイドエレベーター付近に爆弾を命中させた。3名が死亡し22名が負傷、3機の飛行機が損傷を受けた。格納庫内でガソリン火災が起きたが、すぐに消火された。「フランクリン」は作戦行動を継続し、10月19日にはマニラ湾で敵艦を多数撃沈、乾ドックと11機の航空機も破壊した。

レイテ島上陸作戦初期の10月20日に、「フランクリン」の艦載機は周囲の臨時滑走路を攻撃し、敵部隊の探索を行った。10月24日の午前におけるシブヤン海の戦いでは、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊に対し攻撃部隊を発進させ、ルソン南方で戦艦武蔵」および駆逐艦若葉」の撃沈に貢献し、戦艦「扶桑」および「山城」等にも攻撃を加えた。

10月30日にはレイテ島に上陸した米軍に対する支援作戦任務に従事したが、サマール島東側海域にて、ルソン島の海軍航空基地から出撃した神風特別攻撃隊の複数の特攻機の攻撃を受け、一機の爆装零戦が飛行甲板に突入した。衝撃と爆発が広範囲の構造上の損傷を引き起こし、格納庫に大規模の火災を発生させた。しかしちょうど格納庫に爆弾や魚雷が置いておらず誘爆が発生しなかったことも幸いし[6]、適切な消火活動により二時間半で鎮火に成功した。なお、別の爆装零戦一機は、軽空母ベロー・ウッド」に体当たりして同艦を損傷させた[7]

「フランクリン」は中破し、アメリカ本土での修理が必要となった。まず応急修理のため「ベロー・ウッド」とともにウルシー泊地へ帰還し、11月28日にピュージェット・サウンド海軍工廠へ向かった。その間の11月7日にレスリー・H・ゲーレス英語版艦長がシューメイカー艦長と交替した。

このように「フランクリン」は二十日足らずの間に三度損傷し、特に10月30日の被害はこれまで米海軍の艦が被った損害(沈没した艦は除く)のうち最も深刻なものであった[8]

日本本土攻撃

ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理と対空火器の増設等の改修を受け、「フランクリン」は1945年1月26日に活動を再開した。訓練演習の後2月2日にブレマートンを出港、沖縄上陸支援のための日本本土攻略部隊、58.2任務群(ラルフ・デヴィソン少将指揮)に加わる。3月15日に同部隊に合流し、任務群の旗艦となる。三日後の3月18日に九州南部、鹿児島出水に対する攻撃を始めた。この日、鹿屋基地に司令部を置いていた第五航空艦隊(司令長官:宇垣纏中将)は、その指揮下にある各航空隊(四式重爆撃機「飛龍」雷撃機型装備の陸軍雷撃隊二個飛行戦隊を含む)を投入し、全力で第58任務部隊(高速空母機動部隊)に対する迎撃を開始する。

1945年3月19日

九州沖航空戦2日目の1945年3月19日の夜明け前、「フランクリン」は僚艦と共に多数の艦上機を載せて神戸港攻撃に向け前進し、高知県の海岸から50マイルの距離にまで接近していた。朝の6時57分、「フランクリン」は第二次攻撃隊の出撃準備を開始した。その直後の7時8分頃、突如、日本機一機が雲を抜け低空で接近し、緩降下爆撃で二発の徹甲爆弾を投下した。被害分析によれば、投下された爆弾は250kg(または、500kgとする資料もある)だったとされる。

この日本機については陸上爆撃機「銀河」と推定されているが、艦上爆撃機・彗星三三型とする資料もある。もし「銀河」だとすれば第五航空艦隊指揮下の第762海軍航空隊所属機、「彗星」(彗星三三型)だとすれば同じく第五航空艦隊指揮下の第701海軍航空隊所属機であったと推測される。この機の接近については、7時5分に僚艦「ハンコック」が正体不明の双発機の目撃情報として第58任務部隊に報告を挙げ、「フランクリン」にも直接放送して注意喚起していた[9]。それにもかかわらず被弾を許してしまった経緯について、「ヨークタウン」に搭乗していたジョン・ジグラーは次のような証言を残している[10]。「フランクリン」の乗員はこの機を友軍機と勘違いして接近を許してしまい、「ヨークタウン」が無線で機の国籍を確認するよう「フランクリン」に要請したものの、「フランクリン」は相変わらず友軍機と信じて疑わず、そうしているうちに爆弾が落ち轟音がこだました、ということである。

炎上するフランクリン

この日本機は爆弾を投下した直後、「フランクリン」の対空砲火または上空哨戒のF6Fヘルキャット戦闘機によって撃墜され、空中で爆発・四散して破片を「フランクリン」の甲板上に撒き散らした。しかし命中させた爆弾二発はいずれも大被害をもたらすこととなった。一発は飛行甲板中央部を貫通し、格納庫床の第1甲板に張られた装甲に跳ね返った直後に爆発したが、この爆発で第1甲板の装甲板には8フィート(2.43m)×12フィート(3.65m)の穴が開き、爆弾の破片は第1甲板下の酒保などを破壊し、第2甲板まで達して破孔を生じさせた。前部エレベーターが30㎝ほど持ち上がり、格納庫の二~三層で火災が発生、戦闘司令所および飛行司令所にもダメージを与えた。

もう一発は飛行甲板後部を貫通して第二層を突き破り、格納庫内の航空機に当たって爆発した。格納中の5機のF4Uコルセアを炎上させ、搭載していた地上攻撃用のティニー・ティムロケットが誘爆し、さらに第1甲板に3か所の穴を開けた。そのうちのひとつは、航空機上で爆発した爆弾の威力とも相まって、第2と第3甲板をも貫通し居住区を破壊して、最深部の第4甲板に破孔を生じさせている。さらに、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、甲板上でも次々と誘爆を引き起こした[11]

軽巡洋艦「サンタフェ」が消火・救助にあたる
同じくサンタフェから撮影

「フランクリン」は右舷に傾斜し、艦尾が沈下した(消火用の水を舷側から排出するため、意図的に注水して傾斜状態を作ったものである。決して爆撃によって直接的に生じたものでないことに注意[12])。無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物は全損に近い損害を受けた。乗組員の多くが攻撃およびその後の火災で死傷したが、数百名の士官と兵員は艦を救おうと必死の作業を行った。724名が死亡し265名が負傷したが、生存者達の献身的な作業がなければこの数はもっと増加していたと考えられる。従軍神父ジョセフ・T・オハラハン英語版大佐は消火・救助作業を指揮し、誘爆の危険があった弾薬を処理した。この功績で後に名誉勲章を受章している。またドナルド・A・ゲイリー英語版大尉は300名が閉じこめられたコンパートメントを発見し、出口から彼らを救うための作業を繰り返した。続いてゲイリー大尉は格納庫デッキで消火作業を行い、艦の出力を上げるために第3ボイラー室に入って危険な作業に勇敢に立ち向かった。

さらに12時54分頃、一機の彗星三三型と見られる日本機一機が出現して右舷から攻撃を試みたが、投下された爆弾は「フランクリン」から少し離れた海面に落下して炸裂した。艦自体に被害はなかったものの、衝撃で「フランクリン」の傾斜はさらに進み、右舷13度に達した[13]

旗艦としての機能も麻痺していたため、第58.2任務群の指揮官ラルフ・デヴィソン少将およびオブザーバーとして乗り込んでいたジェラルド・ボーガン英語版少将は艦橋から吊り下げ型救命ブイ英語版で駆逐艦「ミラー英語版」に移乗した[14]。艦を離れる際、ゲーレス英語版艦長に対し、艦の放棄も含めた決断を委ねた。しかしデッキの下にまだ多数の人員が残っていたこと、航海長らより「まだ放棄すべきではない」と進言があったこともあり、消火・救助活動を続行して本国へ回航することが決まった[13][15][16]

「フランクリン」の被害は今までの海戦で沈んだ米空母と比較しても空前の惨状であったが、それでも沈むことはなく、エセックス級空母の頑強さを証明することとなった[17]。爆弾の爆発やロケット弾の誘爆で第1甲板の装甲は広範囲で歪んでいたが、水密性、格納庫デッキ下の重要区画については大きな被害はなく、装甲板により防護されていた[18]。4つの機関室にも浸水や火災はなかった。

本国への帰還

ゲーレス艦長の決定を受け取ったデヴィソン少将は、フランクリンの消火・救助活動のために可能な限りの援助を申し出た[19]。第58.2.9任務群が急遽編成され、大型巡洋艦「アラスカ」および「グアム」、重巡洋艦「ピッツバーグ」、軽巡洋艦「サンタフェ」、それに3個駆逐隊がこれに続いた[20]。フランクリンが自力航行できるようになるまで他の艦が曳航することになり、14時頃には「ピッツバーグ 」の牽引のもと、ウルシー泊地に向け出発した[21]

その後も日本軍の攻撃は続いた。3月19日14時35分頃、3月20日の14時52分頃、さらに21日の11時51分頃にも日本機が接近したが、「フランクリン」の対空火器および友軍機により撃退した[22]

艦内の火災は3月22日朝にようやく完全に鎮火し、「フランクリン」は3月24日にウルシー泊地に到着、さらに14ノット(26km/h)の速度で真珠湾に到着し応急処置を行った。その後、自力でニューヨークブルックリン海軍工廠へ向かい、4月28日に到着して修理が開始された。到着の際、乗組員の艦内での復旧作業に関する論争が生じた。ゲーレス艦長は火災を避けて海に飛び込んだ乗員達を「艦を放棄した」として非難した[15]。ウルシー泊地への帰路において、艦に留まったとされる704名をゲーレス艦長は「ビッグ・ベン704クラブ」のメンバーであると宣言した。しかしながら実際には艦に留まったのは約400名であった。

ゲーレス艦長の采配ぶりについては、強引で独裁的であるとして前々から非難も挙がっていた。「フランクリン」が応急処置のため真珠湾に到着した際も、現地の手順では民間人の港湾誘導員が艦に乗り込んでドックまで誘導することになっていたが、ゲーレス艦長は「自分が艦を連れて行く」と言って断った。結局、速度を出しすぎたため「フランクリン」をドックの壁に衝突させてしまった[23]

戦後

予備役編入

損傷状況のレポート
修理中の「フランクリン」。左前方の構造物(連装砲の台座)が元々飛行甲板のあった高さ

「フランクリン」は飛行甲板など上部構造物の大半を撤去・再構築する大規模な修理が必要となり、修理中に終戦を迎えた。海軍記念日には一般公開されている。なお、修理中の1945年6月21日にはボイラー室で火災事故(損害軽微)、1946年5月14日には炭酸ガス漏出事故(死者2名)が発生している[24]

1946年4月、修理が完了に近づき、第4艦隊に配属が決まり整調航海が待たれていたところに、「フランクリン」を予備艦隊である第16艦隊に移す旨の通知が来た[25]。大戦終結に伴う海軍縮小のためであり、他の同型艦の多くも同じように予備役に編入されていった。修理は1946年6月14日に完了した[18]が、そのまま予備役となり、1947年2月17日よりニュージャージー州ベイヨンモスボール処理のうえ保管された。

「フランクリン」はその後、現役復帰や改装が一切なされなかった。これは同型艦の「バンカー・ヒル」も同様である[26]。両艦とも大戦中に大破して復帰が間に合わなかったという共通点はあるが、損傷は首尾よく修復され良好な状態にあり、核攻撃任務を視野に入れた徹底的な大改装("Ultimate" Reconstruction)の候補として温存されていた。しかしながら改装の実施は見送られ、結局は立ち消えとなってしまった[27]。この計画がしばらく残っていたため、SCB-27等の改装対象から外され、現役に復帰することもなかった。もっともSCB-27改装のための調査は行われており、1950年8月には「予備役のなかでも状態がとりわけ良い艦であり、改装費用は他の艦に比べ少なく済む」と評価されている[28]

「フランクリン」は1952年10月1日に攻撃航空母艦(CVA-13)、1953年8月8日に対潜水艦戦支援空母(CVS-13)、1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-8)へと艦種変更されたがいずれも形式的なもので、結局は保管状態のままであった[26]

1959年1月には、同型艦「ヴァリー・フォージ」が飛行甲板を損傷し、早急に修復するため飛行甲板左前方30×90フィート(9.1 m×27.4 m)の部分を保管中の「フランクリン」から移植することになった。「ヴァリー・フォージ」に提供した甲板部分には、「フランクリン」を記念して銅製の飾りが取り付けられた[29]

退役

「フランクリン」は1964年10月1日に退役・除籍となった。海軍は、当初バージニア州ポーツマスのペック鉄鋼株式会社に売却したものの、艦の主機4機を再使用したいという船舶事務局からの要求でいったん再所有することとなった。その後、1966年7月27日にバージニア州チェサピークのポーツマス・サルベージ社に廃棄のため売却された。フランクリンは1966年8月1日の夜、海軍の護衛を伴いレッド・スター牽引株式会社によって出港した。

「フランクリン」は第二次世界大戦の戦功で4つの従軍星章を受章した[30]

「フランクリン」の艦名は原子力潜水艦ベンジャミン・フランクリン(SSBN-640)」に受け継がれた。また、1945年3月19日の救助活動で活躍したオハラハン大佐およびゲイリー大尉、そこで戦死したアーノルド・イズベル英語版大尉にちなみ、ガーシア級フリゲートオハラハン」、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートゲイリー」およびギアリング級駆逐艦アーノルド・イズベル英語版」がそれぞれ命名された。

脚注

参考文献

  • US NAVY FACT FILE Aircraft Carriers CV-13 USS Franklin. (2009). ASIN B002GYWS44 
  • デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』 上、時事通信社、1982a。ASIN B000J7NKMO 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年。ASIN B000JAJ39A 
  • Friedman, Norman (1983). U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-739-9 
  • Raven, Alan (1988). Essex-Class Carriers. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-021-1 
  • Satterfield, John R. (2011). Saving Big Ben: The USS Franklin and Father Joseph T. O'Callahan. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-808-1. OCLC 670481779 
  • Big Ben, the flat top: the story of the U.S.S. Franklin. unknown. (1946) 
  • USS Franklin CV-13 War Damage Report No. 56 D. Bomb Damage - 19 March 1945” (英語). Naval History and Heritage Command. 2019年3月19日閲覧。

関連項目

外部リンク

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