ポツダム

ドイツの都市
紋章地図
基本情報
連邦州:ブランデンブルク州
郡:郡独立市
緯度経度:北緯52度23分45秒 東経13度03分41秒 / 北緯52.39583度 東経13.06139度 / 52.39583; 13.06139
標高:海抜 35 m
面積:188.24 km²
人口:

183,154人(2021年12月31日現在)[1]

人口密度:971 人/km²
郵便番号:14401–14482
市外局番:0331
ナンバープレート:P
自治体コード:12 0 54 000
行政庁舎の住所:Friedrich-Ebert-Str. 79/81
14469 Potsdam
ウェブサイト:potsdam.de
首長:ヤン・ヤーコプスドイツ語版SPD
州内の位置

ポツダムPotsdam)は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の郡独立市で、州都である。人口は約18万人。

サンスーシ宮殿
オランジェリー宮殿

東ドイツ時代には、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

ポツダムの気候
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
最高気温記録 °C°F14.5
(58.1)
18.6
(65.5)
23.5
(74.3)
31.4
(88.5)
33.2
(91.8)
36.6
(97.9)
38.2
(100.8)
38.6
(101.5)
32.6
(90.7)
27.2
(81)
18.0
(64.4)
14.8
(58.6)
38.6
(101.5)
平均最高気温 °C°F2.7
(36.9)
4.4
(39.9)
9.0
(48.2)
14.9
(58.8)
20.0
(68)
22.3
(72.1)
24.6
(76.3)
24.3
(75.7)
19.5
(67.1)
13.7
(56.7)
7.3
(45.1)
3.6
(38.5)
13.9
(57)
日平均気温 °C°F0.2
(32.4)
1.2
(34.2)
4.9
(40.8)
9.5
(49.1)
14.4
(57.9)
17.0
(62.6)
19.3
(66.7)
19.0
(66.2)
14.9
(58.8)
9.9
(49.8)
4.6
(40.3)
1.4
(34.5)
9.7
(49.5)
平均最低気温 °C°F−2.4
(27.7)
−2.0
(28.4)
0.8
(33.4)
4.2
(39.6)
8.7
(47.7)
11.7
(53.1)
14.0
(57.2)
13.6
(56.5)
10.2
(50.4)
6.1
(43)
1.9
(35.4)
−0.9
(30.4)
5.5
(41.9)
最低気温記録 °C°F−20.8
(−5.4)
−19.9
(−3.8)
−14.0
(6.8)
−5.8
(21.6)
−1.7
(28.9)
3.1
(37.6)
6.9
(44.4)
5.4
(41.7)
1.6
(34.9)
−5.1
(22.8)
−10.9
(12.4)
−17.7
(0.1)
−20.8
(−5.4)
降水量 mm (inch)45.8
(1.803)
37.0
(1.457)
39.2
(1.543)
33.8
(1.331)
54.2
(2.134)
66.8
(2.63)
70.7
(2.783)
61.3
(2.413)
45.1
(1.776)
40.7
(1.602)
44.8
(1.764)
52.0
(2.047)
591.4
(23.283)
出典:Weather and climate in Potsdam

地勢・交通

ドイツの首都ベルリンの西南に接し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンとはSバーンでも結ばれている。ハーフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

歴史

ゲルマン民族民族移動時代後、スラヴ人7世紀頃にHevelli部族の移住として入って来た。神聖ローマ帝国皇帝オットー3世が土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、993年の文献にPoztupimiとして初めて記述されている[2]1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2,000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどブランデンブルク=プロイセンの拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を発した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシ宮殿である。他には、新宮殿英語版オランジェリー宮殿英語版がある。

20世紀

戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の衛戍教会で開会され、この日はナチス・ドイツ時代の始まりを象徴する日として「ポツダムの日」と呼ばれた。

第二次世界大戦中は、しばしば連合国軍による空爆に晒された。1939年4月10日にはイギリスが首都ベルリンとともにポツダムを爆撃[3]。さらに1945年4月14日から15日には大規模な空襲により壊滅的な被害に見舞われた(ポツダム空襲)。第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、ツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まりポツダム会談が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定するポツダム協定が成立し、また会議日程中には日本に対する降伏勧告・ポツダム宣言が発表された。

その後、日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしば「ポツダム」が使用される(ポツダム命令ポツダム進級)。

1991年ポツダム大学が創設された。

政治

姉妹都市

姉妹都市は下記の都市である[4]

観光

ハーフェル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国フリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシ宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

引用

関連項目

外部リンク