マウロ・カモラネージ

イタリアのサッカー選手 (1976 - )

マウロ・カモラネージ(Mauro Camoranesi, 1976年10月4日 - )は、アルゼンチン・タンディル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元イタリア代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー

マウロ・カモラネージ
2016年のカモラネージ
名前
本名マウロ・ヘルマン・カモラネージ・セラ
Mauro Germán Camoranesi Serra
愛称ダブルベイ、サムライ
ラテン文字Mauro Camoranesi
基本情報
国籍イタリアの旗 イタリア
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1976-10-04) 1976年10月4日(47歳)
出身地アルゼンチンの旗 アルゼンチン タンディル
身長174cm
体重70kg
選手情報
ポジションMF (SH)
利き足右足
クラブ1
クラブ出場(得点)
1995-1996アルゼンチンの旗 アルドシビ 31 (0)
1996メキシコの旗 サントス・ラグナ 13 (1)
1997ウルグアイの旗 モンテビデオ・ワンダラーズ 6 (1)
1997-1998アルゼンチンの旗 バンフィエルド 38 (16)
1998-2000メキシコの旗 クルス・アスル 75 (21)
2000-2002イタリアの旗 エラス・ヴェローナ 54 (7)
2002-2010イタリアの旗 ユヴェントス 224 (27)
2010-2011ドイツの旗 シュトゥットガルト 7 (0)
2011-2012アルゼンチンの旗 ラヌース 35 (0)
2012-2014アルゼンチンの旗 ラシン・クラブ 39 (3)
代表歴2
2003-2010イタリアの旗 イタリア55 (4)
監督歴
2014-2015メキシコの旗 コラス・デ・テピク
2016アルゼンチンの旗 CAティグレ
2016-2017メキシコの旗 カフェタレロス・デ・タパチュラ
2020スロベニアの旗 ターボル・セジャーナ
2020-2021スロベニアの旗 マリボル
2023-マルタの旗 フロリアーナ
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月16日現在。
2. 2010年6月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

クラブ

メキシコサントス・ラグナウルグアイモンテビデオ・ワンダラーズFCアルゼンチンCAバンフィエルドメキシコクルス・アスルと渡り歩いた後、2000年にイタリアエラス・ヴェローナに移籍。ここでの献身的なプレーが評価され、2002年にマルチェロ・リッピ監督率いるユヴェントスへ移籍した。

当初はジャンルカ・ザンブロッタの控えと目されていたが、大方の予想に反して、効果的なプレーを連発。また、ザンブロッタが左サイドバックにコンバートされたこともあってレギュラーの座を獲得。2004年から監督がファビオ・カペッロに変わった後も、中盤右サイドのポジションを務めた(この間、ユヴェントスは2シーズンともセリエAで優勝しているが、後述のカルチョ・スキャンダルにより2度とも優勝は取り消された)。

その後、カルチョ・スキャンダルによりユヴェントスのセリエB降格が決定すると、他クラブへの移籍を希望したが、ディディエ・デシャン監督(当時)の意向でユヴェントスに残留。セリエA昇格に貢献した。

2007年、監督がクラウディオ・ラニエリに代わった後もレギュラーとしてプレーし、怪我により長期離脱するとその間ユヴェントスの攻撃は機能せず、存在の大きさを浮き彫りにした。復帰後は好調を維持し、2008年にクラブがUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得という目標を達成(セリエAでの順位は3位)する原動力となった。

2009年、監督がチロ・フェラーラに交代。ユヴェントスの基本フォーメーションがフラット4-4-2から4-3-1-2に変更された。怪我がちではあるが、代表と同じトリプルボランチの右を主戦場に、緊急時にはトップ下をこなすなど活躍している。

2010年8月にユヴェントスとの契約を解消し、VfBシュトゥットガルトに移籍した。しかしチームに満足に馴染むことが出来ず、2011年1月にVfBシュトゥットガルトとの契約を解除した[1]

2011年2月、アルゼンチンのCAラヌースと2年契約を結んだ。

2012年7月にはラシン・クラブに移籍した[2]

2014年2月、同年6月に現役引退をすることを明らかにした[3]

イタリア代表

2003年に祖父がイタリア人であったことからイタリアに帰化。イタリア代表入りも果たし、同年2月12日のポルトガル代表戦で代表デビューを飾ると、翌年のUEFA EURO 2004に出場した。

そして2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では、同年にカルチョ・スキャンダルが発覚し、所属するユヴェントスやイタリアサッカー界が暗いムードに包まれる中、ジェンナーロ・ガットゥーゾアンドレア・ピルロダニエレ・デ・ロッシらとトリプルボランチを形成。自身が飛躍するきっかけとなったリッピ監督の下で4度目のワールドカップ制覇に貢献した。

UEFA EURO 2008のメンバーに選出され、4試合に出場した[4]

2010 FIFAワールドカップでは2試合に途中出場するも、チームはグループリーグで敗退した[5]

監督歴

2014年12月15日、コラス・デ・テピクの監督に就任した[6]

エピソード

  • 2006年のドイツW杯で優勝を決めた後、かねてからチームメートと約束していたとおりに、長髪の結わいでいた部分を切り落とした。ちなみに、この期間のヘアスタイルは一部のサッカーファンから侍ヘアと呼ばれた。
  • ギター演奏が趣味で、チームメイトが言うにはかなりの腕前であるという。
  • ユヴェントス移籍以来、毎年のように移籍が取り沙汰されるが結局は残留という流れを繰り返していた。特にカルチョポリの後は本人も移籍を強く望んでいたようだが、ユヴェントスは契約を盾に移籍を認めなかった。本人の恨み節ともとれるコメントが何度かメディアに取り上げられた。
  • カペッロ監督時代のユヴェントスで、ゲームに途中出場するも不甲斐無いプレーを繰り返したため、出場して数分でベンチに下げられたことがある。
  • カッとなりやすい性格が難点で、2011年7月23日のオールドボーイズ戦でウルグアイ人MFファン・パブロ・ロドリゲス・コンデに試合中とロドリゲスが説明を求めた際に2度暴力を振るうなど、30歳超えても丸くなる気配はなかった。またイタリア時代も相手選手といざこざを度々起こすなど、不要なファウルが多く、警告・退場もしばしばだった。

クラブ成績

Source:[7]
クラブシーズンリーグカップCL通算
リーグ出場ゴール出場ゴール出場ゴール出場ゴール
アルゼンチンリーグカップSouth America通算
Aldosivi1994–95Primera B Nacional310310
メキシコリーグカップNorth America通算
Santos Laguna1995–96Primera División131131
ウルグアイリーグカップSouth America通算
Montevideo Wanderers1997Primera División6161
アルゼンチンリーグカップSouth America通算
Banfield1997–98Primera B Nacional38163816
メキシコリーグカップNorth America通算
Cruz Azul1998–99Primera División39113911
1999–2000Primera División36103610
イタリアリーグコッパ・イタリアEurope通算
エラス・ヴェローナ2000–01セリエA22410-234
2001–02セリエA29310-303
ユヴェントス2002–03セリエA30410131445
2003–04302635140354
2004–05セリエA3641091465
2005–06セリエA3430090433
2006–07セリエB33420-354
2007–08セリエA22510-232
2008–09セリエA1911061262
2009–10セリエA2430091334
ドイツリーグDFB-PokalEurope通算
シュツットガルト2010–11Bundesliga700060130
アルゼンチンリーグカップSouth America通算
Lanús2010–11Primera División17020190
2011–12Primera División15031181
メキシコ88228822
ウルグアイ6161
アルゼンチン7016517517
イタリア2753413150433839
ドイツ700060130
キャリア通算4467113161552079

個人成績

代表での成績

出典[8]


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
200360
200450
200571
2006111
200740
200891
2009111
201020
通算554

脚注