ジェンナーロ・ガットゥーゾ

イタリアのサッカー選手・監督

ジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾGennaro Ivan Gattuso, 1978年1月9日 - )は、イタリアカラブリア州コリリアーノ・カーラブロ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元イタリア代表。現役時代のポジションはミッドフィールダーリーグアンオリンピック・マルセイユの監督を務める。

ジェンナーロ・ガットゥーゾ
シオン兼任監督時代(2013年)
名前
本名ジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾ
Gennaro Ivan Gattuso
愛称リーノ、重戦車、ブレイヴハート、がっちゃん、闘犬
ラテン文字Gennaro Gattuso
基本情報
国籍イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1978-01-09) 1978年1月9日(46歳)
出身地コリリアーノ・カーラブロ
身長177cm
体重77kg
利き足右足
ユース
1990-1995イタリアの旗 ペルージャ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1995-1997イタリアの旗 ペルージャ 10 (0)
1997-1998スコットランドの旗 レンジャーズ 34 (3)
1998-1999イタリアの旗 サレルニターナ 25 (0)
1999-2012イタリアの旗 ミラン 335 (9)
2012-2013スイスの旗 シオン 27 (1)
通算431 (13)
代表歴
1995-1996イタリアの旗 イタリア U-1814 (3)
1998-2000イタリアの旗 イタリア U-2121 (1)
2000イタリアの旗 イタリア オリンピック3 (0)
2000-2010イタリアの旗 イタリア73 (1)
監督歴
2013スイスの旗 シオン (選手兼任)
2013イタリアの旗 パレルモ
2014-2015ギリシャの旗 OFIクレタ
2015-2017イタリアの旗 ピサ
2017イタリアの旗 ミラン プリマヴェーラ
2017-2019イタリアの旗 ミラン
2019-2021イタリアの旗 ナポリ
2021イタリアの旗 フィオレンティーナ
2022-2023スペインの旗 バレンシア
2023-2024フランスの旗 マルセイユ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

生い立ち

イタリア半島の南東に位置するコリリアーノ・カーラブロに生まれる。父親は小さな会社を経営しながらカルチョACミランを愛するという人物で[1]、父親の影響を受けたガットゥーゾは幼い頃からボールを蹴り出し、12歳でカラブリア州のユース代表に選出された[1]。当時から技巧派の選手ではなく、サルバトーレ・バーニが好きだったと語っている[2]。同様にキャプテン翼に登場するキャラクターの中では石崎了が好きであったことを語っている[3]

1991年に当時セリエC1に所属していたボローニャから誘いを受けるが、これを断った。すぐさまペルージャからオファーが届き、結果的に故郷を離れてペルージャからプロへ駆け上がるという環境に身を置くことになった。

選手時代

ACペルージャ時代

プリマヴェーラではスクデットを獲得し[1]、U-18イタリア代表にも選出された[2]。1995-96シーズンに17歳でセリエBながらプロデビュー。翌シーズンにクラブはセリエAに昇格し、ガットゥーゾも1996年12月22日にセリエAデビューを果たした。

その数カ月後の初春に、彼に人生最大の転機が訪れる。意外にもスコットランドの強豪レンジャーズが、当時、欧州サッカー界で議論を巻き起こしていたボスマン判決を利用する形で、ガットゥーゾの移籍金ゼロでの獲得に乗り出し、(ガットゥーゾ曰く)「現在の30倍近くの年俸を払う」と持ちかけた[1]。当然ペルージャ側に手塩にかけて育てた逸材を手放す考えはなかったが、最後はガットゥーゾの意思で移籍が決まった。

レンジャーズFC時代

移籍証明書の発行が遅れ、グラスゴーに赴いて2カ月間は出場不可であったが、1997-98シーズンからスターティングメンバーに名を列ね、巨躯なスコットランドの選手達に交じり、アイブロックスのピッチを駆け回る小柄なイタリア人は「ライノー(スコットランド人の「リーノ」の発音)」「ブレイヴハート」と呼ばれファンの心を掴んだ。計36試合に出場し7得点を挙げた。1998-99シーズンの途中に、イタリア復帰を突然表明した。当時セリエAに所属していたサレルニターナが獲得に乗り出し、1998年10月に移籍した。

ガットゥーゾ本人は現在でも「あの国のサッカーが僕の性格やプレースタイルには最も合っている」と明言している[2]。またレンジャース退団に際して俳優のショーン・コネリーから残留する様に懇願されたと後に明かした[4]

ACミラン時代

ACミラン時代(2008年)
イタリア代表時代(2006年)

セリエAに復帰したが、サレルニターナは最終節でセリエBに降格した。ガットゥーゾ自身は1998-99シーズン終了後にACミランへ移籍した。

2002年FIFAワールドカップ日韓大会出場。イタリア代表はベスト16。

2003-04シーズン、セリエA優勝。

2006年FIFAワールドカップドイツ大会出場。ブッフォンカンナヴァーロピルロトッティマテラッツィデル・ピエロらと共に24年ぶり4度目の優勝。

2008年12月、カターニア戦で前十字靭帯を損傷し、長期離脱[5]。2009年5月13日のアルバニアとの親善試合で復帰した[6]

2010年、FIFAワールドカップ南アフリカ大会を最後に代表引退する事を表明。しかし本大会では守護神のブッフォンが椎間板ヘルニアにより途中離脱。ピルロも負傷(3戦目に強行出場)などキープレイヤーの不在も響き、イタリア代表は1敗2分と1勝もできずにグループリーグ敗退、自身も第3戦のスロバキア戦でスタメン出場するが前半終了時にクリスティアン・マッジョと交代しベンチに退いた。

2011年9月、ラツィオ戦で途中交代後、長期離脱。10月に行われた会見で視神経のマヒによるものと発表された。2012年5月、2011-12シーズン限りでのミラン退団を公表した。

FCシオン時代

2012年6月、スイス・スーパーリーグFCシオンへ移籍[7]。2013年2月、解任されたビクトル・ムニョスの後任として選手兼任監督に就任したが[8]、5月に解任された[9]

指導者として

2013年6月、セリエBに降格したパレルモの監督に就任。だが同年9月、わずか6試合で解任された[10]

2014年6月、ギリシャ・スーパーリーグOFIクレタの監督に就任[11]。10月26日、一度は辞任を表明したが[12]、翌日に撤回した[13]。だが12月に給与未払いなどを理由に再び辞任した[14]

2015年8月、レガ・プロ(イタリア3部)のピサの監督に就任。2015-16シーズンは好調を維持して、セリエB昇格プレーオフに進出、フォッジャ・カルチョとのプレーオフ決勝戦で2戦合計4-2で勝利し、チームを7年ぶりのセリエB昇格に導いたが[15]、喜びも束の間、シーズン終了後に契約を巡ってファビオ・ペトローニ会長と衝突して2016年7月31日に辞任を発表した。しかし翌月にピサは中東の投資会社に買収され、新オーナーとなった投資会社はガットゥーゾの復帰に動き、2016年9月2日に復帰した[16]。電撃復帰により迎えた2016-17シーズンはリーグ最少失点の36を誇りながら、得点数は23と攻撃陣が極度の不振に陥り、第40節でASチッタデッラに敗れるとわずか1年でレガ・プロ降格が決定し、シーズン終了後にガットゥーゾも退任した[17]

2017年5月26日、古巣ACミランのプリマヴェーラの監督就任が発表された[18]。契約期間は2年間。

2017年11月27日、モンテッラの後任としてミランのトップチームの監督に昇格した[19]

2018-19シーズンは4位インテルに勝ち点1の差で及ばずCL出場権を逃し、2019年5月28日、退任が発表された[20]

2019年12月11日、SSCナポリの監督に就任したことが発表された[21]コッパ・イタリアでは決勝でユヴェントスをPK戦の末に破り、優勝に導き[22]、指導者としてのキャリアをスタートして以降、初タイトルを獲得した。しかし、リーグ戦は奮わず、2019-20シーズンは7位で終了。2020-21シーズンも5位に終わり、同シーズン終了後に解任された。

2021年5月25日、ACFフィオレンティーナの監督に就任したことが発表された[23][24]。しかし、選手補強を巡ってクラブ側と対立。結局1試合も指揮を執ることもなく、6月17日に双方の合意により退任したことが発表された[25]

2022年6月9日、バレンシアCFの監督に就任したことが発表された[26][27]。契約期間は2024年6月までの2年間だったが、成績不振によりわずか半年ほどで契約解除となった[28]

2023年9月27日、オリンピック・マルセイユの監督に就任したことが発表された[29]。しかし、2024年に入ると公式戦7試合未勝利など結果を残せず、わずか5か月ほどで解任となった[30]

個人成績

クラブシーズンリーグカップ国際大会その他通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
ペルージャ1995-96200020
1996-97800080
通算10000100
レンジャーズ1997-98293602130404
1998-9950005110111
通算343407240515
サレルニターナ1998-9925000250
ミラン1999-002211050281
2000-0124020100360
2001-0232050100470
2002-0325030140420
2003-04331207130452
2004-053202011010460
2005-0635330110493
2006-0730140130471
2007-08311108030431
2008-091200041161
2009-102201010240
2010-113122050382
2011-126000001070
通算33592609928046811
シオン2012-1327150321
総通算43113370106412058617

試合数

国際Aマッチ 73試合 1得点(2000年-2010年)


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
200061
200130
2002100
200340
200490
200580
2006100
200760
200890
200950
201030
通算731

監督成績

2023年1月29日現在
クラブ就任退任記録
勝率
シオン 2013年2月25日2013年5月13日123451015−5025.00
パレルモ 2013年6月19日2013年9月25日8314109+1037.50
OFIクレタ 2014年6月5日2014年12月30日175391124−13029.41
ピサ 2015年8月20日2017年5月26日882936238473+11032.95
ミラン 2017年12月10日2019年5月28日8340232011782+35048.19
ナポリ 2019年12月11日2021年5月23日8146132214793+54056.79
フィオレンティーナ 2021年5月25日2021年6月17日000000+0!
バレンシア 2022年6月9日2023年1月30日227693425+9031.82
合計3091328592410320+90042.72

評価

  • カルロ・アンチェロッティは「私が攻撃的なサッカーを志向できるのは、ひとえに彼のおかげで、彼が汚い仕事をしてくれるから、我々は言ってみればバランスの悪いシステムを採用する事ができる。」と発言している[2]

エピソード

  • 2006年に発覚したカルチョスキャンダルではユヴェントス、フィオレンティーナ、ACミラン、ラッツイオ、レッジーナに所属していた選手は何も関与していないにも関わらずイタリア警察に家宅捜査された。
  • アンチェロッティのACミランでの最終戦の後に別れを惜しんで声を出して泣いた[31]
  • 彼の父親は息子をジャンニ・リヴェラのような選手に育てたかったようだが、本人は「昔からそんな選手には興味がなかった」と語っている[2]
  • 2006年FIFAワールドカップでイタリアが優勝した際、監督のマルチェッロ・リッピに「代表に残ると誓ってくれ。残らないとどうなるかわかるよな」と脅しを交えながら喜んだ。

タイトル

選手時代

ミラン
イタリア代表

監督時代

ナポリ

脚注

外部リンク