ロバート・メンジーズ

オーストラリア首相

サーロバート・ゴードン・メンジーズ英語: Sir Robert Gordon Menzies KT PC FRS1894年12月20日 - 1978年5月15日) は、オーストラリア政治家。第12代首相を務めた。自由党の創設において中心的な役割を果たし、その政策と幅広いアウトリーチを定義した。なお首相としての在任期間は最長であった。

ロバート・ゴードン・メンジーズ
Sir Robert Gordon Menzies
生年月日 (1894-12-20) 1894年12月20日
出生地オーストラリアの旗 オーストラリア ビクトリア州ジェパリット
没年月日 (1978-05-15) 1978年5月15日(83歳没)
死没地オーストラリアの旗 オーストラリア ビクトリア州マルバーン
出身校メルボルン大学
所属政党(統一オーストラリア党→)
自由党
称号KT
AK
CH
FRS
QC
配偶者パティ・レッキー
子女4人

在任期間1939年4月26日 - 1941年8月28日
国王
総督
ジョージ6世
アレグザンダー・ホア=ラスヴェン
在任期間1949年12月19日 - 1966年1月26日
国王
総督
エリザベス2世
ウィリアム・マッケル
ウィリアム・スリム
ウィリアム・モリスン
ウィリアム・シドニー
リチャード・ケイシー
テンプレートを表示

経歴

生い立ち

1894年12月20日ビクトリア州ジェパリットに誕生する。彼には2人の兄・姉・弟がおり、メンジーズはオーストラリア生まれにして2人の両親を持つ最初の首相であった。父親はバララット、母親はクレスウィックで誕生した。彼の祖父母はビクトリア朝のゴールドラッシュによってオーストラリアに引き寄せられていた。青年時代はメルボルン大学で法律学を学び、メルボルン有数の弁護士となる。

政界

1932年から34年までヴィクトリア州副首相を務め、その後連邦議会議員に転ずる。1934年4月、ジョゼフ・ライオンズが死去したことに伴い統一オーストラリア党党首に選出され、第12代連邦首相に就任。1939年9月に始まった第二次世界大戦への参戦を決定し、1941年にイギリスでウィンストン・チャーチルの戦時内閣に4ヶ月間加わった。しかし党内での支持を失い、同年8月帰国した後に首相を辞した。その後は統一オーストラリア党に代わるオーストラリア自由党の創設を支援し、1945年8月にその初代党首者に選出された。

1949年の連邦選挙においてメンジーズは保守連合を勝利へと導き首相に返り咲いた。ラジオを通じて促進された家と家族へのアピールは、経済が成長し、中産階級の価値観が普及するにつれて、冷戦に対する恐怖もあり国民の時代精神と一致した。メンジーズは2期目に7回連続で選挙に勝利し、最終的に1966年1月に首相を辞任した。

1937年2月1日、枢密顧問官に任命された[1]

1963年3月29日、シッスル勲章を授与された[2]。1965年11月11日[3]から1978年に死去するまで五港長官英語版を務めた[4][5]。1965年6月3日、王立協会フェローに選出された[6]

出典

参考文献

  • Alan Martin, Robert Menzies: A Life, two volumes, メルボルン大学出版, 1993 and 1999
  • Judith Brett, Robert Menzies' Forgotten People, Macmillan, 1992

外部リンク

公職
先代
アール・ペイジ
オーストラリア首相
1939年4月26日1941年8月28日
次代
アーサー・ファデン
先代
ベン・チフリー
オーストラリア首相
1949年12月19日1966年1月26日
次代
ハロルド・ホルト
名誉職
先代
サー・ウィンストン・チャーチル
五港長官英語版
1965年 – 1978年
次代
エリザベス王太后
🔥 Top keywords: メインページ宮崎麗果特別:検索豊後水道松本忠久土居志央梨若葉竜也能登半島地震 (2024年)田中雄士長谷部誠井上道義The GazettE若林志穂服部百音黒木啓司REITA虎に翼平井理央出口夏希サーブ (盲導犬)三鷹事件セウォル号沈没事故白眞勲三淵嘉子高橋克也 (オウム真理教)ME:Iルーシー・ブラックマン事件佐藤ありさ杉咲花蜜谷浩弥水野真紀亀井亜紀子 (政治家)熊本地震 (2016年)水原一平井川意高中川安奈 (アナウンサー)内藤剛志いなば食品YOSHIKI