啓定

ベトナムの元号

啓定(けいてい、カイディン・Khải Ðịnh)は、ベトナム阮朝啓定帝の治世で使用された元号1916年 - 1925年

改元

出来事

1917年から1919年(啓定2-4年)までインドシナ総督を務めたアルベール・サローフランス語版の協同主義政策のもとでベトナム人知識人層が育まれ、植民地政府での現地人官僚の採用や科挙廃止(1919年)、フランス語およびクオック・グー教育の推進といった教育改革などが行われた[1][2]。このようにして形成された新生知識人層による政党設立が行われ、代表的なものとして1923年結党の立憲党が存在する[3]。しかしながら後任の総督たちは一転して弾圧策に転じ、教育や思想に対する厳しい制限・検閲が実施されることとなった[3]。弾圧への幻滅・反感から前述の立憲党のような親仏派の政党は衰退していき、代わりに1925年(啓定14年)にホー・チ・ミン広東で結成したベトナム青年革命同志会ベトナム語版などの反仏派の活動が盛んとなり[4][5]、1924年(啓定13年)には当時のインドシナ総督マルシャル・メルランフランス語版暗殺未遂が起きている[6]。このような反仏運動に対し植民地当局はファン・ボイ・チャウ逮捕(1925年)など厳しい弾圧を加えるが、反仏運動は次の保大に至るまで続いた[6]

出典

旧暦4月15日5月16日)に内閣が提出した元号案のひとつに「啓衷」の2文字があった。啓定帝は「啓」の字を朱で囲い、「衷」の字を消して「定」に替えた。内閣は「啓定」を「安寧と平和の始まり」と解釈し、また典拠として「大啓爾宇、克定厥家」(『詩経』)および「霊命重啓、蕩定有期」(『周書』)を見出した[7]

西暦との対照表

啓定元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年
西暦1916年1917年1918年1919年1920年1921年1922年1923年1924年1925年
干支丙辰丁巳戊午己未庚申辛酉壬戌癸亥甲子乙丑
皇紀2576年2577年2578年2579年2580年2581年2582年2583年2584年2585年
大正5年6年7年8年9年10年11年12年13年14年


脚注

参考文献

  • 粕谷裕子『アジアの脱植民地化と体制変動:民主制と独裁の歴史的起源』白水社、2022年。ISBN 978-4-560-09886-8 
  • 古田元夫『増補新装版 ベトナムの世界史:中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-006534-4 

関連項目


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