山崎義方

山崎 義方(やまざき よしかた)は、江戸時代前期から中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領2代領主。

 
山崎義方
時代江戸時代前期~中期
生誕寛文7年(1667年
死没宝永5年6月5日1708年7月22日
改名敏治(初名)
別名(通称)主税助、三郎、左太郎
墓所岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺
官位なし
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉家宣
氏族近江山崎氏
父母父:山崎豊治、母:側室
兄弟市十郎(早世)、常治(家督相続前に早世)
市橋政信の娘
尭治土倉一涂、女子(京極高通継室)、女子(一柳頼邦婚約者)、照方
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生涯

寛文7年(1667年)、備中国成羽領初代領主山崎豊治の三男として成羽で生まれる。母は豊治の側室。正室は近江国仁正寺藩2代藩主市橋政信の娘。義兄には仁正寺藩第3代藩主市橋信直がいる[1]。なお、市橋家とは遠縁の関係に当たる。義方の伯父讃岐国丸亀藩2代藩主山崎俊家と、義方の正室の祖父に当たる越後国新発田藩3代藩主溝口宣直は、共に正室が豊後国臼杵藩3代藩主稲葉一通の娘であるため義兄弟の関係である。

延宝3年(1673年)10月26日、次兄常治が16歳で早世したことにより世継となった。翌延宝4年(1676年)12月15日、10歳の時に徳川家綱に拝謁した。その後、元禄元年12月9日(1688年12月31日)に父・豊治の隠居に伴い、成羽領5,000石の家督を相続した。翌元禄2年(1689年)6月、幕府の許可を得て初めて成羽へのお国入りを果たす。宝永元年(1704年)、義方は尊崇していた江戸の愛宕神社を成羽の愛宕山頂に勧請し、愛宕神社に白谷提にて花火を奉納。この花火は現在でも「成羽愛宕大花火」として毎年7月に開催されている[2][3]。なお、江戸時代を通じて山崎氏の江戸屋敷は麻布愛宕下に所在していた。また領主在任中は、罪人の預かりなどを勤めている[4]

宝永5年(1708年)6月5日、大阪中之島にある蔵屋敷に滞在中に死去。享年42歳。家督は嫡男の尭治が相続した。

系譜

脚注

参考文献

  • 『山崎家譜』東京大学史料編纂所
  • 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
  • 『成羽町史』成羽町史編集委員会編、成羽町、 1991-1996
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