平山英雄

日本のプロ野球選手 (1949-2021)

平山 英雄(ひらやま ひでお、1949年1月1日 - 2021年5月14日[1])は、北海道釧路市出身のプロ野球選手投手)である。

平山 英雄
基本情報
出身地日本の旗 日本 北海道釧路市
生年月日 (1949-01-01) 1949年1月1日
没年月日 (2021-05-14) 2021年5月14日(72歳没)
身長
体重
177 cm
70 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1966年 第1次ドラフト2位
初出場1967年4月13日
最終出場1974年4月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

釧路江南高校では、エースとして活躍。1965年には釧根支部予選を制し、秋季北海道大会に進むが、1回戦で室蘭工に敗退。翌1966年には夏の甲子園に出場。1回戦で小倉工と対戦、投の二本柱である横山晴久斎藤英雄と投げ合うが、延長12回の末に1-3で敗退[2]

同年のドラフト会議阪神タイガースに2位で指名され入団。入団を担当したのは、佐川直行スカウト[3]。慶応大学野球部からの声もあったが、プロ入りを決断した[1]

入団当初は、ドラフト1位指名の江夏豊よりも評価が高かった。1年目の1967年4月13日大洋戦で一軍初登板[3]、25日にはサンケイ戦で初先発を果たす。この一軍初登板、初先発とも江夏よりも先であった[3]。その後は伸び悩み、一軍からは遠ざかり、江夏と大きく差をつけられることになる。しかし1970年10月24日には大洋を相手に先発、7回1/3を無失点で好投しプロ初勝利を記録する。ただ同年の一軍登板はこの試合のみであった。

プロ6年目の1972年には、7月2日中日との対戦で同季初先発、勝利投手となる。この勝ち星で波に乗り、同年7月18日から20日に行われた広島3連戦では、同一カード3連続勝利投手を記録した。同年9月21日の巨人戦では7試合連続で本塁打を打っていた王貞治の記録を止めた[3]。同年は34試合に登板し、自己最多の7勝を挙げている。

しかし、翌1973年から再び一軍から遠ざかり、1974年オフに鈴木皖武小川精一上辻修森山正義と共に、池辺巌井上圭一との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。オリオンズでは公式戦登板の機会が無く、翌年限りで引退した。引退後は、神戸損害保険会社に勤めた[3]

2021年5月14日、胃がんのため死去。72歳没[1]

スライダーカーブシュートを得意球とした。

映画監督の相米慎二は、高校の1年先輩に当たる。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1967阪神7200001----.0004310.1101600200665.401.55
19701100010----1.000297.150300510100.001.09
19713000000--------378.2142200200555.001.85
197234500074----.63634485.07773160360032293.071.27
19737000000--------407.012281050011911.572.86
197410000000------31.000000000000.000.00
通算:6年538000850--.615496119.1118125070501055493.711.41

記録

  • 初登板:1967年4月13日、対大洋ホエールズ2回戦(川崎球場)、8回裏から5番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初先発登板:1967年4月25日、対サンケイアトムズ3回戦(明治神宮野球場)、3回無失点で勝敗つかず
  • 初勝利・初先発勝利:1970年10月24日、対大洋ホエールズ26回戦(川崎球場)、7回1/3を1失点(自責点0)

背番号

  • 73 (1967年入団当初)
  • 31 (1967年)
  • 16 (1968年 - 1969年)
  • 30 (1970年 - 1974年)
  • 37 (1975年)

脚注

関連項目