揚州大虐殺
揚州大虐殺(ようしゅうだいぎゃくさつ)とは、中国の揚州で起こった大量虐殺。760年の田神功によるペルシア人やイスラム商人虐殺や、1645年の清・南明戦争で起こった虐殺などがある。
760年の揚州虐殺
760年の唐代に、安史の乱や李希烈の乱[1]平定に参与した田神功(?-774年)が、揚州で掠奪し、胡人やペルシア人商人やイスラム教徒(大食)[2]などの外国人を数千人虐殺した[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]。
『旧唐書』にはこのように記録されている。
上元元年,為平盧節度都知兵馬使,兼鴻臚卿,於鄭州破賊四千余衆,生擒逆賊大将四人,牛馬器械不可勝数。尋為鄧景山所引,至揚州,大掠百姓商人資産,郡内比屋發掘略遍,商胡波斯被殺者数千人 — 『旧唐書』列伝第七十四、田神功伝
また、878年から879年にかけて黄巣が広州で外国人商人を襲撃した[5][4]。イスラム商人、ユダヤ人、キリスト教徒、パールシー教徒も殺害され[4][14]、犠牲者は12万人から20万人にものぼるとされる[12][15]。
1645年の揚州虐殺(揚州十日)
1645年(順治2年)旧暦4月から5月にかけて、清のヌルハチの十五男の豫親王ドド(多鐸)軍が、南明の史可法軍と戦闘した際に、揚州で大規模な殺戮を行い、死者は80万人にのぼった[16][17]。ドドの軍は弘光帝の立てこもる南京も攻め落とし、弘光帝は翌年北京で処刑された。
『揚州十日記』では虐殺80万とされるが、当時の揚州の人口は20万以下であったことから、死者数は誇張されていると指摘されている[18]
反清復明運動への影響
清軍の残虐行為を描いた『揚州十日記』や朱子素『嘉定屠城紀略』は、「反清復明」「滅満興漢」のスローガンとともに辛亥革命にいたる反清運動でよく読まれた[19][20][21]。