史可法

政治家

史 可法(し かほう、万暦30年11月4日1602年12月16日) - 弘光元年4月25日1645年5月20日))は、明末の政治家・軍事家。字は憲之[1]、号は道鄰[1]開封府祥符県の出身で大興県(現在の北京市)に籍を置いた[1]後漢初の溧陽侯史崇の49世の孫にあたる。

史可法

生涯

1628年崇禎元年)に進士に及第[1]。その後、西安府推官、戸部主事、戸部員外郎、戸部郎中などを歴任した[1]1635年(崇禎8年)8月、盧象昇に従い各地の農民反乱を鎮圧[1]1637年(崇禎10年)には右僉都御史に抜擢、安慶廬州太平池州及び河南江西湖広の府県を巡撫している[1]1643年(崇禎16年)7月には辞任した南京兵部尚書の熊明遇に代わってその職に就き、朝政の中枢に参与するようになった[1]

1644年(崇禎17年)、李自成により北京が陥落すると、北伐を考えていた史可法は南京に軍を引き返した[1]崇禎帝の死を受けて、戸部尚書高弘図とともに潞王朱常淓中国語版を擁立しようとしたが、鳳陽総督馬士英などの反対を受けて断念[1]。同年5月にやむなく福王朱由楼(弘光帝)を擁立することになった[1]南明政権の樹立)。そして馬士英の推挙で兵部尚書兼武英殿大学士となり、「督師輔臣之印」をもって出鎮し、史閣部と称した[1]。馬士英は自らの出鎮を望まず、史可法を朝廷から出すよう仕向けたものといわれており、その経緯は応廷吉『青燐屑』上巻に書かれている[1]

1645年(南明で弘光元年、清朝で順治2年)に清軍が入関すると[1]、その勢いのまま江南に押し寄せた[2]。清軍は揚州城(江蘇省揚州市)に迫り、数回にわたり降伏を勧告したが、史可法はこれを拒否した[1]。入城した清軍に捕えられ『清世祖実録』によると軍前で斬られたという[1]。享年44歳[1]

揚州攻撃に甚大な被害を出したドルゴンは、城内の虐殺を命令し、10日間にわたり80万人が虐殺される揚州大虐殺と称される事件が引き起こされた。

史可法に対しては、南明の隆武帝から忠靖、清の乾隆帝からは忠正とおくり名された[1]

脚注