日墨学院

メキシコの日本人学校

日墨学院(にちぼくがくいん)は、社団法人日本メキシコ学院(しゃだんほうじんにほんメキシコがくいん、スペイン語: Liceo Mexicano Japonés, A.C.)の通称。リセオとも呼ばれる。メキシコシティ南部アルバロ・オブレゴン行政区ハルディネス・デル・ペドレガル英語版にある日本人学校である[1][2][3]。メキシコ・ヤクルト社の会長を務めた[4]春日カルロス英語版が創設者で、初代校長を務めた[5]

日本メキシコ学院
地図
国公私立の別私立学校
設置者社団法人日本メキシコ学院
設立年月日1977年9月23日
共学・別学男女共学
学期3学期制
所在地メキシコの旗 メキシコ
Camino a Santa Teresa 1500, Col. Jardines del Pedregal, CP 01900, Ciudad de México
外部リンク公式サイト
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概要

マリア・ドローレス・モニカ・パルマ・モラ(María Dolores Mónica Palma Mora)によると、日墨学院は日系メキシコ人の「生活における中央機関」であるという[6]。また、千鶴子・ホーゲン・渡邊によると、日本人が子供に日墨学院を通わせたのは「民族性を維持して、成功の礎としている精神上の財産を教えて、ほかの日系人の子供との関連を維持する」ためで[7][8]、多くの日系人が日墨学院の管理と問題点を学ぶために学院を訪れるという[9]

2012年にレフォルマ紙が発表したメキシコシティ内の私立高校ランキングにて総合一位を取得[10]、2014年の同ランキングでも最高スコアを得た[11]

歴史

正式に開校する1977年まで、10年以上の準備活動が行われてきた[12]。当時のメキシコシティにはすでに日本人学校が数校存在していたが、1974年に合併が始まり、予備校1校[13]とメキシコシティの日本人補習校4校のうち3校が1977年に正式に合同した[14]

学校設立の提案はメキシコシティの日系人社会で賛否両論だった。渡邊によると、メキシコ日本人協会と日墨学院の重要性は協会と学院の「設立と管理について日系人の間で多くの紛争がおきた」ことが示している[15]。例えば、1967年7月に行われた協会の年度会議では暴動を防ぐために警察官12人が出動、暴力の予告も受けた[16]。渡邊によると、日墨学院が開校した後は「敵対が収まり、団結した状態になっている」[17]

学校設立は日本の田中角栄総理大臣がメキシコを訪問した後のことだった[6]。日本政府は1975年に開校に必要な資金として3億円を拠出した。田中は後に学院の定礎式に出席した[18]。1977年9月[13]、日墨学院は正式に発足、開校式にメキシコ元大統領ルイス・エチェベリア[19]教育相英語版スペイン語版ポルフィリオ・ムニョス・レド英語版スペイン語版が出席した[6]。日本とメキシコ両政府とも学院を承認した[13]。学校設立に最も前向きだったのはメキシコの日系二世であり、子供に日本の文化を継承させたいことがその理由だった[20]。1984年に高校部を開設、日本の福田赳夫総理大臣は同年に日墨学院を訪れた[18]

幼稚部から高校部まで持った日墨学院はやがて1,000人以上の生徒を抱えるようになり、メキシコ人、日系人、日本の外交官や駐在員の子女など幅広い層を含むようになった[13]

ラテンアメリカの日本人の作者であるダニエル・マスターソンによると、日墨学院はメキシコで「最も成功した学校のうちの1校」に上り詰めたという[12]。また、メキシコ・ジャーナル(Mexico Journal)によると、1988年から1994年までのメキシコ大統領カルロス・サリナス・デ・ゴルタリが子弟を日墨学院に通学させたため、日本では日墨学院がメキシコ最良の学校として見られているという[1]。サリナス本人は子弟を日墨学院に通学させた理由に日本の文化が設計と規律を重要視することを挙げた。この出来事の背景には、同時期のメキシコ政府は日本との通商を拡大しており[21][22]、日本はメキシコにおける影響力を拡大していたという事実がある[23]。また、メキシコ当局は日本からの投資を誘致しようとしていた[24]

1997年、予備学級の学生が同校の小学生に性的暴行を加えたという疑いをかけられた[25]。親からの圧力により疑われた学生は退学処分を受けたが[26]、その学生は後に少年委員会によって無罪放免されている。日墨学院はその学生の研修旅行を取り消したとして187万メキシコ・ペソの罰金を科された[27]。11月には子弟が日墨学院に通学している官僚がその学生を退学させるよう学院に圧力をかけたとの疑惑が浮上していた[28]

1997年、名古屋市はメキシコシティとの姉妹都市締結20周年記念として日墨学院との学生交換を開始、日墨学院は以降毎年名古屋に学生を派遣している[29]

教育課程

日墨学院はメキシコ教育省英語版スペイン語版メキシコ国立自治大学教育課程に準拠したメキシココースと日本文部科学省の教育課程に準拠した日本コースを提供している[18]

メキシコ人子弟向けのメキシココースは主にスペイン語で行われるが、日本語学習も週に10時間行われる。美術、書道、柔道、空手道、音楽、茶道も教える[30]

校舎

校舎の標識はスペイン語と日本語の両方で書かれている。

校舎の面積は約36,880平方メートルである[31]。校舎を設計した建築士はメキシコ出身のペドロ・ラミレス・バスケス英語版スペイン語版とマヌエル・ロセン・モリソン(Manuel Rosen Morrison)で[31][32]、ラファエル・エスピノサ(Rafael Espinoza)も設計に参加した[33]。日本政府が校舎の設計を委託した[19]

体育館の外壁には1987年に横浜の美術作家西森禎子が発案した壁画がある。日墨学院の学生20人と日本からの学生14人が合作で壁画を描いたのであった[34][35]

学院の体育施設は合気道、バスケットボール、ダンス、空手道、剣道などの運動に使われる[18]

学生

1981年時点ではメキシココースには幼稚園生150人、小学生470人、中学生166人、高校生60人、日本コースには小学生282人、中学生58人がいた[36]

1983年時点の学生のうち、日系人以外の学生の家族は大半が金持ちでインテリだった。渡邊によると、この現象の起因は日墨学院の「位置、私立であること、教育のクオリティが高いこと」にあるという[37]。またほかのに住む日系人家族も日墨学院に通学させるために子弟をメキシコシティに住む親族の元に送り出したという[37]

学校行事

1983年時点では遠足、学芸会などが行われるが、最大級の行事は運動会で、渡邊によると社交イベントとしての役割も果たしたという[38]。学院は学校行事と交流活動でメキシココースと日本コースを交流させている[18]。新年、メキシコ独立記念日死者の日公現祭ラス・ポサダス英語版スペイン語版国際フレンドシップ・デー英語版、学生の日、子供の日でもイベントが行われ、日本とメキシコの歴史を教えることを目的としている[18]

脚注

参考文献

  • Masterson, Daniel M. The Japanese in Latin America. University of Illinois Press英語版, 2004. 0252071441, 9780252071447.
  • Watanabe, Chizuko. "The Japanese Immigrant Community in Mexico Its History and Present" (Master's Thesis), California State University at Los Angeles英語版, 1983.

関連図書

関連項目

外部リンク

西経99度12分43.2秒 / 北緯19.309083度 西経99.212000度 / 19.309083; -99.212000