民主集中制

民主集中制(みんしゅしゅうちゅうせい、英語: democratic centralism)とは、「民主主義中央集権主義」の略で、共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされ[1]、全共産党員など下部員が上級機関および指導者の決定に無条件に従う行動規範のこと[2]

ルーマニア共産党による民主集中制を主張するイラスト。「異論」は党を破壊する分派とされ、厳しく弾圧された[3](1931年12月作)。

反対政党の存在や個人による組織批判も許さないプロレタリアート独裁のために創り上げたこの制度は、共産党の一党独裁を維持することを最優先とする[4][5][6]。具体的に言うと、党員同士の横の繋がりを禁止し、党幹部の方針に反する場合は処罰対象となるため、党内の異論や少数意見が表に出にくく、党内民主主義の無い上意下達の組織となる組織原理[7][8][6]

定義

1917年、ロシア社会民主労働党は第6回党会議において、民主集中制を以下のように定義した[9][10]

  1. 党は、互選による。
  2. 全ての党組織は、その活動内容の一切を党に報告する義務を負う。
  3. 少数派は、多数派および党規約に対し、厳格に隷従する義務を負う。
  4. 党上部の決定は、全党員および下部組織に対し、絶対的かつ強制的な拘束力を持つ。

以上の規約は民主集中制の基本原理を表す党規約として採用され、そのままソ連共産党が継承した[11]。その後も各社会主義国や各国共産党の公式的な組織原理として採用された[12]ウラジミール・レーニンは、これら党規約によって党内の少数意見を持つ異分子を弾圧することにより「民主的な革命」がなされるとし[13]、「少数派の批判は完全に尊重される。……だが、それはあくまでも党の決定や行動を一切妨げない範囲であり、それ以外の批判は排除される」と記述し、表現の自由を尊重する民主的な制度だと主張した[14]

理論的には、主権者である人民の代表、もしくは議会から選ばれた指導部に国家権力を集中する制度である。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したものと称する[15]

前衛党が取るべき方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党員による実践を通じて検証するという考え方を組織の原則とする。

しかし実際は、理論上に書いたものが本当にソ連中国で実施されたかどうか異議が唱えられている[16][17]。厳格な規律・上級機関に対する定期的報告の義務化・党内および国内の民主主義への制限・国民に対する閉鎖や弾圧などの印象が付けされた論争的な概念でもある[18][19]

歴史

概念の誕生と全共産党の党組織の原則化

「民主主義的中央集権制」の原則は、1906年4月に開かれたロシア社会民主労働党の統合大会で初めて党の組織原則として採択された。

これに先立つ1905年11月、メンシェヴィキの協議会が「党の組織について」という決議を採択した。「ロシア社会民主労働党は民主主義的中央集権制の原則にしたがって組織されなければならない」とした上で、その内容として、党の機関は選挙によって構成されること(選挙制)、更迭されうること(更迭制)、その活動を定期的(党大会)および随時(中央委員会総会)に報告しなければならないこと(報告義務制)などを挙げたものだった。1905年12月に開かれたボリシェヴィキの協議会で採択された決議「党の再組織について」もほぼ同じ内容の民主主義的中央集権制を「争いの余地なきもの」と認めた。統合大会はこれらの動きを受けて党規約を改正し、民主主義的中央集権制を採用した。

統合大会ではメンシェヴィキが多数派だったため、採択された決議もメンシェヴィキの主張に沿ったものが多かった。そのためボリシェヴィキは大会の決定を繰り返し批判した。メンシェヴィキが支配する党中央委員会は、その批判を規制するため、党の新聞雑誌や集会での批判は自由だが大衆的な政治集会で大会の決定に反する煽動や大会の決定に矛盾する行動の呼びかけを行ってはならない、という決議を採択した。レーニンは「批判の自由と行動の統一」[20]という論文でこの決議を批判し、批判の自由は党の集会でも大衆集会でも完全に認められるべきだが行動の統一を破る呼びかけは党の集会でも大衆集会でも認められるべきではない、という見解を示した。

民主的な要素の後退

十月革命後、内戦が激しくなると民主主義的中央集権制の原則は修正され、民主主義的要素が後退して軍事的規律が支配するようになっていった。1919年の第8回党大会で採択された決議「組織問題について」は「上級のすべての決定は下級にとって絶対的に拘束的である〔…〕この時期に党で必要なのはまさしく軍事的規律である」とした[21]

さらに1921年の第10回党大会で採択された決議「党の統一について」は党内において分派を形成することを禁止した。それでも1920年代には党内にトロツキー派やブハーリン派などの反対派が存在したが、スターリン派によって一掃され、1930年代大粛清において次々に処刑された。共産党は指導部ないし最高指導者個人に対する批判を一切許さない全体主義的な組織へ、またソ連は全体主義体制が支配する社会ファシズム国家へと変質した。このスターリン時代の党組織原則を民主主義的中央集権主義と区別して一枚岩主義と呼ぶ見解もある[22]

しかし、共産党自身は自らの組織原則を民主主義的中央集権制と呼びつづけた。1934年に改正された党規約第18条も「党の組織構成の指導的原理は民主主義的中央集権制」と規定しており、その内容として以下の四つの項目が挙げられている。(1) 党の上から下までのすべての指導機関の選挙制 (2) 党組織にたいする党機関の定期的報告制 (3) 厳格な党規律、ならびに多数者への少数者の服従 (4) 下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的な拘束性。

コミンテルン加盟政党への普及

1920年に開かれたコミンテルン第二回大会は「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」を採択し、その中で「民主主義的中央集権制の基礎的原則は、党の上級団体が下級団体によって選挙され、党の上級団体の指令一切が絶対的に、かつ必然的に下級団体を拘束し、大会と大会との間の期間、一切の指導的な党の同志が一般にかつ無条件にその権威を認める、強い党の中心が存在すべきことである」と規定した。

軍隊的な上意下達に基づいた党規律を民主主義的要素よりも優先・強調した、このような反民主主義的中央集権制がコミンテルンを通じて各国の共産党に広がっていった[15]。これは、非合法時代の日本共産党第一次第二次)に対してコミンテルンが与えた22年テーゼ27年テーゼなどの文書により、日本にも伝えられた。

共産国家の憲法規定化・一党独裁

1936年にソ連で成立したスターリン憲法は、第126条で「労働者階級、勤労農民および勤労インテリゲンツィアのうちの最も積極的かつ意識的な市民は、自由意志にもとづいて、共産主義社会を建設するための闘争において勤労者の前衛部隊であり、かつ勤労者のすべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核をなすソビエト連邦共産党に団結する」と規定し、一党制の法的根拠を与えた。

1977年に採択されたソ連のブレジネフ憲法は国家の原則として民主主義的中央集権制を採用し、第3条で「ソビエト国家の組織と活動は、民主主義的中央集権制の原則、すなわち下から上までのすべての国家権力機関は選挙によって構成され、これらの機関は人民に対して報告義務を負い、上級機関の決定は下級機関にとって拘束力をもつという原則に従って打ち立てられる」とした。

ソ連崩壊以後

1991年ソビエト連邦の崩壊による各種文書の情報公開で、ソ連共産党が長年資金援助していたことが明るみに出たフランス共産党[23]では、1994年1月の第28回大会で民主集中制を規約から外した。そして、同大会で1970年以来党運営を独裁的にを担ってきたジョルジュ・マルシェ書記長が退任させられ、ロベール・ユーが書記長に就任した[23]

2021年時点でも憲法や支配政党の党規約にも民主集中制の原則が盛り込まれている国家として、中華人民共和国(憲法第3条、中国共産党)、朝鮮民主主義人民共和国(第5条、朝鮮労働党)、ラオス人民民主共和国(第5条、ラオス人民革命党)、ベトナム社会主義共和国(第8条、ベトナム共産党)があり、全て建国時に共産主義を主張した1党独裁国家である[24]

制度現存の政党

独裁国家における民主集中制の支配政党

国家名指導政党名政党制度投票方法選挙方法選択の自由度最高権力機関立候補要件議員の出身成分常務委員会
制度
中華人民共和国中国共産党ヘゲモニー政党制秘密投票間接選挙信任選挙全国人民代表大会政党団体からの推薦が必要予め枠が決められている全国人民代表大会常務委員会
朝鮮民主主義
人民共和国
朝鮮労働党ヘゲモニー政党制公開投票直接選挙信任投票最高人民会議朝鮮労働党による指名が必要最高人民会議常任委員会
ベトナム
社会主義共和国
ベトナム共産党一党制秘密投票差額選挙国会祖国戦線による審査の合格者国会常務委員会
キューバ共和国キューバ共産党信任投票人民権力全国会議市議会議員であるか、候補者推薦委員会から推薦され
且つ市議会から承認される必要がある
国家評議会
ラオス
人民民主共和
ラオス人民革命党差額選挙国民議会指導政党選挙管理委員会干渉国民議会常務委員会
特記:国家の英語名のアルファベット順

中華人民共和国憲法第三条
 中華人民共和国の国家機構は、民主集中制の原則を実行する。
 全国人民代表大会及び地方各級人民代表大会は、すべて民主的選挙によって選出され、人民に対して責任を負い、人民の監督を受ける。
 国家の行政機関、監察機関、裁判機関及び検察機関は、いずれも人民代表大会によって組織され、人民代表大会に対して責任を負い、その監督を受ける。

非独裁国家にある民主集中制政党

日本共産党

日本共産党は「民主集中制」を党運営の組織原則としており(党規約3条)[6]、理論面における最高指導者だった第3代議長元党付属社会科学研究所長で名誉役員の不破哲三も「社会主義日本では労働者階級の権力すなわちプロレタリアート独裁が樹立されなければならない」と述べている。

政策委員会責任者などを歴任した元参議院議員の政治評論家筆坂秀世は、「組織内には原則として上下の関係しかなく、基本的には党員同士の横のつながりは禁止されている」と組織の実情を明かしている[6]。とはいえ、都道府県委員会が上級組織の中央委員会や常任幹部会への報告・相談なしに独走することも建前上はできないので、この点で一応の歯止めは掛けられている。

日本共産党中央委員会のメンバーの選出法は定期党大会で選出されるが、事前に中央委員会が推薦した候補者名簿に対する信任投票であるため、落選者がいないことを暴露している[6]。また、他の政党のように党員が幹部会委員長党首)を直接選挙で選ぶという制度(党首公選制)は採用されておらず、党内に真の選挙は存在しないことを明かしている。横のつながり、「分派」(党の方針に反する言動をすること)は禁止されており、党内民主主義が存在しないとも筆坂は主張する[6]

党規約5条の(7)により、しんぶん赤旗日刊紙および電子版に掲載された党大会ないしは中央委員会総会の決定文書を、党員は発表後速やかに読了し、その事実を所属する支部に報告しなければならない。支部は地区委員会に、地区は都道府県委員会に、都道府県は中央委員会に報告し、「(党大会ないし中央委員会総会)終了後1週間以内の読了率」「2週間以内の支部での討議実施割合」などという形で公表して、党内が一枚岩であることを誇示する。なお2000年の第22回党大会以前は、規約2条に「日々の赤旗をよく読んで」とあり、党大会・中央委員会の決定文書は勿論のこと、しんぶん赤旗日刊紙の月極購読が党員の重要な義務となっていた。

2024年1月18日の第29回党大会終結時点でも民主集中制度を維持しており、元党政策委員のジャーナリスト松竹伸幸1974年入党)が党首公選制導入、また立命館大学総長室長などを歴任した元党京都府委員鈴木元1962年入党)が第5代委員長志位和夫の退任を、それぞれ求める主張を公刊したことについて、党中央は両名に最も重い除名処分を発動した[8][25]

制度廃止した政党

日本社会党

 日本社会党は1955年(昭和30年)の結党時の規約には記述がなかったが[26]、綱領的文書『日本における社会主義への道』を採択した1964年(昭和39年)の党大会で、規約第三章「組織」の下の第十四条に「党の基本組織は中央本部、都道府県本部(以下県本部)総支部、支部であり、基礎組織は支部である。 支部は総支部に、総支部は県本部に、県本部は中央本部に統一され、組織原則は民主集中制である」と規定し民主集中の考え方を取り入れた[27]

この条項は、1991年(平成3年)の党大会で中央執行委員長田邊誠シャドーキャビネット影の内閣)を発足させた際、規約から削除[28]された。これにより社会党は民主集中制を名実ともに放棄した。

批判

日本共産党が民主集中制を維持することへの批判

1975年12月に『文藝春秋』で始まった連載「日本共産党の研究[29]において、立花隆暴力革命プロレタリア独裁・民主集中制をレーニン主義の三位一体の原則だと指摘した。その上で、日本共産党は暴力革命を否定し、プロレタリア独裁の意味内容を換骨奪胎したが、民主集中制は捨てていないので体質は変わっていない、と主張した。また、民主集中制の背後には大衆に対する不信とエリート主義がある、という見解を示した。日本共産党はこれを「反共攻撃」と見なし、「民主集中制は、勤労大衆に責任を負う近代政党の不可欠のメルクマールである。党内派閥を認めず、三十数万の党員が一つの路線、方針にもとづいて多彩に積極的に活動している日本共産党は、もっとも近代的、合理的で、活力ある組織政党である」[30]などと反論した。

1976年には藤井一行が雑誌『現代と思想』において「民主主義的中央集権制と思想の自由」を発表し[31]、民主集中制の内容がレーニン時代とスターリン時代では大きく異なっていることを指摘した。藤井はとくに、レーニンの時代には分派が自由に形成されており、その上で「批判の自由と行動の統一」という原則が成立していたことを強調した。これに対しては日本共産党の側から不破や榊利夫が反論し、「批判の自由と行動の統一」という原則はボリシェヴィキとメンシェヴィキが同じ党内で争っていた時代のものであり、レーニンの原則はむしろ1921年の分派禁止令に表れている、と主張した[32]

オウム真理教事件滝本太郎サリン襲撃事件被害者としても知られる弁護士の滝本太郎は、神奈川県庁に勤めていた1979年(昭和54年)頃から繰り返し「日本共産党の衰退原因は民主集中制だ」と主張している。2019年時点でも日本共産党の代表変更・政策変更が上意下達であり、ボトムアップでは一切行われず、突如上部からの命令となっていて党内の議論が外から見えず、国民からの信頼を得ていないからだと指摘している。「(もし、日本共産党が)そのまま政権を握れば、日本国自体がそうなるのではないか」と著しい不安を持たせているからであり、「日本国民は日本共産党が『いつも一枚岩である』ことなぞ求めていない」こと、「(日本共産党は)議論ができない組織だと示してしまっている」ことや、過去に除名された党員が「いかに実績ある人でも酷く非難される状況に恐ろしさを感じる」と述べている。「このままであれば『民主集中制にこだわり、やがて後期高齢者の政党、そして最速で2029年頃には消滅』していくこと必定」とも指摘している[33]

2022年、朝日新聞社説で「異論や少数意見が表に出にくい「民主集中制」という組織原理は閉鎖性を伴う」と記載した[7]

同年9月、党幹部会委員長志位和夫は党創立100周年記念講演において、「日本共産党は今後も民主集中制を堅持する」との方針を示した[34]

民主集中制時代のフランス共産党の指導部への批判

1978年3月に行われたフランスの総選挙において、フランス社会党フランス共産党を中心とする左翼連合は、得票率で与党を上回ったにもかかわらず敗北した。フランス共産党政治局は声明を発表し、敗北について「フランス共産党はいかなる責任も負っていない」と主張した[35]

これに対して党の知識人党員が抗議の声を挙げた。アルチュセールをはじめとする6名が『ル・モンド』に共同で書簡を発表し、その中で(1) 近く開かれる中央委員会総会の前に各地で党員集会を開き、党員の意見を中央委員会総会に反映させること、(2) 中央委員会総会における中央の報告と参加者の発言を公表すること、(3) 党の機関紙誌に討議欄を開設すること、(4) 次の第23回党大会は候補者選考委員会による選別を廃して代議員選挙を完全に民主的なやり方で組織すること、を要求した[36]

その後、アルチュセールは『ル・モンド』に論文を発表し、党の軍隊的な「縦割り構造」[37]を批判した。この問題についてはエルネスト・マンデルがコメントしており、アルチュセールに基本的に賛成しつつ、党内に「潮流」を形成する権利も要求すべきだ、としている。分派が禁止された1921年3月のソ連共産党第10回大会においても、レーニンは潮流を形成する権利については否定していないという[38]

1991年ソビエト連邦の崩壊による各種文書の情報公開によって、ソ連共産党が長年にわたってフランス共産党へ資金援助していたことが明るみに出た[23]。ソ連崩壊以降からでソ連の党内への影響力が無くなり、1994年1月の第28回大会で民主集中制を規約から外した。そして、同大会で1970年以来党運営を担ってきたジョルジュ・マルシェが引退し、ロベール・ユーが書記長に就任した。[23]

脚注

関連項目