船場商家

大阪船場地域に於ける商人及びその世帯

船場商家(せんばしょうか)は、大阪船場地域に於ける商人及びその世帯

船場道修町の『小西儀助商店(現:旧小西家住宅史料館)』(1903年(明治36年)撮影)

大阪の商人町は豊臣秀吉が船場を開発した際に移住させられた平野の商人の他、近江伏見の商人が船場を含む大阪城下へ移住することによって形成された。これ等各地の商人文化に倣い、船場の商家には独自の風習や生活様式が育まれた[注釈 1]

概要

大阪の船場地域は、1583年(天正11年)豊臣秀吉が上町台地を中心に城下町建設を進める中で、東横堀の西側に町を造成・移転したことに始まる[要出典]

江戸期1619年(元和5年)、大阪は天領となり、市政を担当する東西町奉行が設置され、城下は北組・南組・天満組の大坂三郷に分けられた[2]

享保以降、大阪では多数の奉公人を雇用する法人的組織をもつ商家が主流となり、家訓や店則の制定、所有と経営の分離、会計帳簿の整備、奉公人制度の確立があり、組織と管理を重んじる経営、いわゆる「船場商法」が定着することとなった[3]

近代以降、大阪は大大阪時代を迎え、人口増加や産業の発展と共に大気汚染等の環境問題がおこり、船場商家を含む一部富裕層や新中産階級と呼ばれた人々は住み良い環境を郊外への生活に求め、阪神間地域へと移住した。これ等の移住により、高級住宅地の造成、旦那集や有職婦人らによる近代的・豪奢な生活文化(阪神間モダニズム)が阪神間に形成された[4]。郊外への居住は、明治後期から増加しつつあった社会階層であるサラリーマンの生活様式であり、こうした職住分離型の住宅取得への志向がひろがっていた[5]

船場商家の制度

戦前の船場商家には「仕着しきせ別家制」、「通勤給料制」、「住み込み給料制」の三種類の雇用形態があった。「仕着別家制」とは、店に住み込み主として盆正月の二回、着物などの身の回り品(仕着)一切と小遣いをもらい、衣食住等の生活はすべて主人側で負担する一方、賃金は支払われないという制度である。入店できるのは男子に限られており、入居後は「丁稚」として、主人のお供、子守、掃除、家内の雑役などをし、数年たって始めて商売の仕事に就くことができる。このような丁稚生活を続けた後、二十歳位で「手代」になると、羽織を着ることが許され、さらに数年して「番頭」になって初めて別家独立と結婚が許された。別家独立時は、資本金や商品、また結婚費用などが主人によって提供された。このように別家はさまざまな援助を本家から受けるかわりに、毎月また式日には夫婦が正装して主家の「御機嫌伺」に行かねばならず、また冠婚葬祭時には手伝うことが義務づけられていた[6]。このような仕着別家制は江戸期に始まり明治以後も同様に続けられていたが、大正期ごろから法人化する商店が出始めた。それに伴い通勤給料制、あるいは両者の折衷的制度である住み込み給料制に変更する商店が増えていったが、従来の仕着別家制も根強く残っていた。

船場道修町の商家では、入居すると奉公人はまず、ごりょんさんから、着物、帯、下着と店の作業着などをもらうが、すぐに店に出られるわけでなく、しばらくは奥の手伝いをし、その聞にごりょんさんから「仕込まれる」のである。

掃除のほかは本宅においては若御寮さんから[注釈 2]、行儀、作法やしつけ、質素倹約の精神等多目的にわたり仕込まれました。例えば、水道のメーターが上がるとか、感謝の気持ちで食事をし、ご飯の一粒でもこぼしたら拾って食べなさい。それはケチではない、「しまつ、節約、物の大切さ」の精神を日常生活の中で繰り返し繰り返し教わりました[7]

ここでは、「仕込まれる」という言葉が何度も出てくるように、丁稚は奥の手伝いをしながら「日常生活の中で」ごりょんさんに「仕込まれ」た。「仕込」まれたのは、「しまつ、節約」だけでなく「あいさつ」も商家では重要であった。

お盆、年の暮近くになりますと、旦那さん、御寮はんに奥の聞に呼ばれまして、これからお供物を持って荒川商店さん(現・荒川工業)へ使いにやらされました。店とは親戚以上の古いお付き合いであったそうです。一度女中部屋に入り、洗濯をした清い厚司(丁稚用の作業着)に着替えて、挨拶の仕方とか行儀作法を幾度も繰り返し教えられ、「では行て参じます」と挨拶して出かけます。荒川商店さんに着いて女中さんに口上を述べ、帰る際には奥さんが出て来られて労を犒って頂き、その上おため(寸志)を貰い、帰店早々御寮さんに「只今荒川さんより帰って参じました」と挨拶をします。荒川さんの奥方の口上を述べ風呂敷を渡しますと、おため袋の中を確かめられた上、「これ、あんたに上げるが大切にするんやで」といわれます[7]

船場には「行て参じます」というような独特の船場言葉があり、丁稚は定型化された口上を訓練させられることによって、船場商家の「つきあい」を身につけていった。お付き合いの先方の女中に口上を述べ、またごりょんさんからの口上を聞くことによって、他店のごりょんさんや女中から「あいさつ」の教育を受けることにもなった。

丁稚が番頭へと昇進するときには、必ずごりょんさんやおいえさんが同席し、彼女たちの手から番頭へと昇進したしるしである着物一式が渡された。この時に渡される羽織は、番頭になって始めて着ることが許されるものであり、番頭になったという象徴的な意味を持つものであった。道修町では、商家の妻が席に出ることは少なかったが、それでも、大晦日の商家の「毎年の行事」には出席し、店員の昇進の象徴である羽織を渡すのは、ごりょんさんの役目であった。丁稚が入居した時に仕着を渡すことから始まり、様々なしつけを経て一人前の商人にいたる終着点である番頭になるまでの責任と役割を、ごりょんさんはダンサンとともに担っていたのであり、番頭になることを認める権限をも担っていたことを、このような羽織を渡す行為は象徴している[8]

船場商家の町屋

船場商家の町屋は京町屋と同様の形式(通り庭型、通り土間型)をとり、商売と生活空間が共存しており、店主家族と店員との往来や交流も密接であった。

船場言葉

船場の商家で話される大阪弁には特徴があり、独特の語彙やアクセントをもつ。概ね京ことばの影響がみられ、一説では、かつて大阪の商人が京都の豪商を気取りその言葉を真似した事に由来すると云われる。

脚注

註釈

出典

参考文献

  • 道修町資料保存会『「先達の語る道修町-座談会『道修町の古老に聞く』」』道修町資料保存会、1998年。 

関連項目