諸橋晋六
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。東京府北豊島郡出身。三菱商事株式会社元特別顧問・相談役・代表取締役会長・代表取締役社長。勲一等瑞宝章受章。名誉大英帝国勲章受章。贈従三位。
もろはし しんろく 諸橋 晋六 | |
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生誕 | 1922年7月13日 日本 東京都 |
死没 | 2013年6月23日(90歳没) |
出身校 | 上智大学経済学部卒業 |
職業 | 実業家 三菱商事元特別顧問・相談役・会長・社長 |
受賞 | 勲一等瑞宝章受章 名誉大英帝国勲章受章 贈従三位 |
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名前 | ||||||
カタカナ | モロハシ シンロク | |||||
ラテン文字 | MOROHASHI Shinroku | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1922年7月13日[1] 大日本帝国、東京府北豊島郡[2] | |||||
没年月日 | 2013年6月23日(90歳没) 日本、東京都 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1937-1939 | 東京高等師範学校附属中学校 | |||||
1942-1947 | 上智大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
三菱商事 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
東京府北豊島郡高田町で五人兄弟の三男(兄2人、姉1人、妹1人)として生まれた[2]。父は後に大漢和辞典の編者となる諸橋轍次、母・キンは小千谷縮の商家の出身であり、詩人の西脇順三郎は母の従兄弟であった[3]。自宅の近くに菊池寛の居宅があり、幼少期は菊池の息子の英樹とよく遊んでいた[3]。
東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校、1935年卒業)では鶴見俊輔や中井英夫などが同級生であった[4]。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の3年生よりサッカーを始め、4年生でレギュラーとなり、5年生で主将を務め[5]、1940年に中学を卒業した。
中学卒業後は旧制高等学校を受験したが、1940年および1941年と2年連続で受験に失敗して浪人生活を送った。浪人時代の友人に上掲の中井がいた[6]。1942年も旧制高等学校の受験に失敗したものの、上智大学経済学部経済学科に合格して同大学に進学した[1][7]。なお、後に文部大臣を務めた永井道雄が同学年に当たる[8]。大学時代はサッカー部に所属し、東京都大学サッカーリーグでプレーした[9]。
1943年11月、太平洋戦争に伴って兵役に就き、同年12月より福島県、宮城県で訓練を受けた[10]。1944年12月に見習士官となり、1945年8月の終戦を兵庫県加古川で迎え、同年10月に東京の自宅へ戻った[11]。終戦後は上智大学に復学して1947年に卒業した[12]が、同期入学120名の内で卒業したのは28名であった[11]。
大学卒業後の1947年に三菱商事へ入社したが、後に諸橋は父の口添えがあったのではないかと語っている[13]。入社後は同社サッカー部に所属し、1947年には加茂健らと共に開催された関東実業団サッカー大会の優勝メンバーに名を連ねた[12][14]。
1958年にマニラに赴任。一度東京に戻った後、1964年よりロンドンに赴任した。なお、ロンドン駐在時に元日本代表で三菱化成社長(当時)であった篠島秀雄の協力を得て『三菱ダイヤモンド・サッカー』(東京12チャンネル→テレビ東京)の番組開始に尽力した[15]。
その後はマニラ支店長およびロンドン支店長、欧州三菱商事の副社長を務めた。1980年6月に三菱商事の取締役兼ロンドン支店長[1]、1983年6月に常務取締役[1]、1985年6月に副社長を歴任[1]。
1986年11月、社長(当時)の近藤健男が就任後5か月で死去したのに伴い、社長に就任した[1][12]。1992年6月に社長を退任して、取締役会長に就任[1]。1998年4月1日より相談役、2004年より特別顧問をそれぞれ務めた。また、2001年には勲一等瑞宝章を受章し、同年中に日本サッカー協会の4級審判のライセンスを取得した。
役職
受章歴
出典
- 『私の履歴書 経済人32』日本経済新聞社、2004年6月1日。ISBN 453216902X。
脚注
関連項目
- 筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧
- 槙原稔:三菱商事の後任社長