配達されない三通の手紙

配達されない三通の手紙』(はいたつされないさんつうのてがみ)は、1979年松竹制作配給の日本映画[1][2]

配達されない三通の手紙
監督野村芳太郎
脚本新藤兼人
原作エラリー・クイーン
(「災厄の町」より)
製作野村芳太郎
織田明
田中康義
出演者栗原小巻
小川眞由美
松坂慶子
片岡孝夫
竹下景子
渡瀬恒彦
佐分利信
音楽芥川也寸志
撮影川又昂
編集太田和夫
製作会社松竹
配給松竹
公開日本の旗 1979年10月6日
上映時間131分
製作国日本の旗 日本
言語日本語
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エラリー・クイーン推理小説災厄の町』(Calamity Town)を野村芳太郎監督が映画化した作品で、新藤兼人が脚本を執筆している[3][4]

原作の舞台はアメリカだが、舞台を山口県萩市に移し替え、地方の上流家庭の美人三姉妹の葛藤から恐ろしい殺人事件が起こるという設定に変更した[2][4][5]。映画業界では、昔から翻訳物は成功しないといわれていたため[2][6]、新藤と野村は「そのジンクスを破ってみせる」と話した[2][6]

あらすじ

山口県萩市にある旧家の唐沢家には、光政と妻のすみ江、それに麗子、紀子、恵子の3人の娘が暮らしている。ある日、この家にボブというアメリカ人の青年がやって来た。彼は日本文化を学ぶために来日、伯父である光政を頼って来たのだ。

紀子は父の経営する銀行の行員である藤村敏行と結婚することになっていたが、3年前に敏行が突然失踪して以来、部屋に引きこもって魂の抜けたような生活を送っていた。ある日、その敏行が突然帰って来た。紀子は大喜びし、久々に笑顔が戻った。それから数日後、紀子は敏行の本の間に挟まれた3通の封筒に入った手紙を見つける。それを読んだ紀子は驚いた表情を見せる。

その様子を見ていたボブと恵子は、手紙をこっそりと盗み見した。その手紙は全て、敏行の妹・智子に宛てられたものだったが、内容は恐るべきものであった。やがてその手紙に書かれた通りの事件が起こり、紀子が嘔吐、さらに智子が死んでしまう。

スタッフ

キャスト

製作

企画

大の推理小説好きの野村芳太郎監督は、1970年代後半には推理小説を矢継ぎ早に映画化した[2]。『事件』『鬼畜』の後、野村は松本清張の『白い闇』と『鉢植を買う女』と、二年後に『真夜中の招待状』として映画化された遠藤周作の『闇のよぶ声』を企画として考え、シナリオを執筆していたが[2]、上手くいかず[2]。また清張原作の『熱い絹』も製作の予定があり[2]、1978年6月に清張と一緒にニューヨークへ行った際、エラリー・クイーン(フレデリック・ダネイ)に会い、話も弾み親しみを持った[2]。『熱い絹』は製作中止になり[2]、当時は毎年のように映画が公開されていた野村にとっても1979年に一本も自作が公開されないのは淋しいな、と考えていたところ、女性ミステリー映画アガサ・クリスティ原作の『ナイル殺人事件』の日本でのヒットを見て、観客はこういう映画を見たいのだろうと、当時の日本映画はそういう期待に応えていないと考え、『ナイル殺人事件』風の映画を作ろうと考えた[2]1976年の『犬神家の一族』の大ヒット以降、傾向として探偵ものよりおどろおどろしい方に向いていたため、軽やかさがあってドラマチックで、ファッショナブルな匂いのする作品を作りたいと、松竹に相談し、野村と松竹の企画部で作品を探した[2]。それで同じクリスティ原作の戯曲検察側の証人』(『情婦』として映画化)をやろうとしたが、同作は著作権が曖昧で映画化権が取れず[2]。エラリー・クイーンなら野村も面識があり、映画化権も取れるだろうとクイーンの作品を全部読んで『災厄の町』が映画化するには一番適しているのではないかという結論に達した[2]

キャスティング

松竹から野村に「キャスティングを派手に」という要請があり[2]、野村が栗原小巻と松坂慶子を先に口説き、二人を中心にキャスティングを行った[2]。野村組には出演を希望する役者が多いため、キャスティングも撮影も順調過ぎてやや力が入りにくかったと野村は話している[2]

脚本

新藤兼人の脚本を野村が気に入らず。クランクイン時には半分しか出来ていなかった[2]。野村は「(ノンクレジットの)松原信吾に全部書き直させた」と話している[2]。クランクイン後、4、5日経って脚本が完成[2]

映画の舞台を山口県萩市に替えた理由は、映画の内容からは分からないが、野村は「宣伝の関係で思い切って地方にモデル都市を決めた」と話している[2]。しかし何故、萩市に決ったのかははっきり書かれた物がない。

製作会見

1979年7月14日に製作発表があり[7]、エラリー・クイーン原作の『カラミティ・タウン』を邦題『配達されない三通の手紙』として野村芳太郎監督で映画化と発表され、主要出演者の発表も合わせてあった[7]

撮影

冒頭で1979年8月に運航が開始された観光列車SLやまぐち号」が映り、後半残り30分で通信社記者役の大川美穂子(竹下景子)が出演する場面で、萩駅構内の売店で新聞を3誌買うシーンがあり、売店に陳列される週刊誌は当時そのままの物で、新浦寿夫表紙の『週刊ベースボール』1979年8月6日号や、ピンクレディーが表紙の『週刊プレイボーイ』1979年8月7日号などが映ることから撮影は1979年夏を中心に撮影されたと推察できる。

ロケ地

舞台は山口県萩市だが、作品内容に萩の歴史風土等は関わらず、萩が選ばれた理由は不明[8]

冒頭のクレジットタイトルは、ロバート “ボブ”・フジクラ:蟇目良山口線の「SLやまぐち号」の始発駅・小郡駅(現新山口駅)から、D51形に乗り込み、山口駅からバスで萩に向かうシーンをバックに表示される。萩駅やミヨシノ醤油などが映る。萩は萩武家屋敷松陰神社、萩の繁華街なども映る。その他、山口大学医学部附属病院?(山邦大学医学部付属病院と表記)山口県衛生試験所?(山口県環境保健センター)など。山口県以外では、福岡市福岡空港が数秒、北海道釧路市釧路港などでロケが行われている。

室内の撮影は、唐沢家の豪邸の本宅、藤村敏行(片岡孝夫)と唐沢紀子(栗原小巻)が結婚後に住む唐沢家の敷地内の離れ、唐沢光政(佐分利信)が頭取を務める銀行の頭取室、藤村敏行が働くその銀行内、唐沢麗子(小川眞由美)がママを務めるスナックの主に5ヶ所。このうち、藤村敏行が働く銀行内は大きく建物も年季が入っており、これは実際の銀行か古い建物を使っての撮影と見られる。唐沢家の豪邸は玄関前は実景だが、本宅や離れの窓から実景らしきものが一切映らないことから、それ以外の室内シーンは全て松竹撮影所のセットと見られる。

舞台は山口県萩だが、牛山博士(小沢栄太郎)が最初の方で「よう知っとる」「似とりますなあ」と二言だけ地元言葉を喋るが、後は全シーン標準語。藤村敏行と智子は北海道出身、峰岸検事(渡瀬恒彦)は広島県出身の設定だがこの3人も標準語を話す。

松坂慶子のバックショットでのヌードが2回ある。胸は見えないがお尻は見える。

宣伝

本作にも出演する松坂慶子主演の『五番町夕霧楼』とともに[9]、女性層を狙った作品として製作された[2][9]角川映画の参入以降、各社邦画洋画を通じて宣伝費の高騰に手を焼いており[9]、本作の宣伝費は当初8000万円の予定だったが、重要視されたテレビスポットを打てば1億円余分にかかると聞いた野村監督が、松竹首脳に「テレビスポットをやらずにその分1億円の予算を製作費に欲しい」と直談判[9]。このため本作はテレビスポットを1本も打たず、活字宣伝に重点を置いた[9]

当初は1979年10月13日の公開が告知されていたが、同年9月23日に松竹から両ピカデリーで公開を一週間早め、1979年10月6日公開にしよう、という案が出て、野村一人反対したが正式に決定した。公開日の10月6日、東京築地東劇ビル18階のレストラン・エスカルゴで記者会見があり[7][10]奥山融松竹副社長、梅津松竹本部長、野村芳太郎監督、乙羽信子、神崎愛、片岡孝夫、蟇目良、松坂慶子らと、高齢のエラリー・クイーン(フレデリック・ダネイ)夫妻が松竹に招かれて10月3日に来日し、この日の会見に出席[7][10]。松竹から「急遽、両ピカデリーでロードショー公開になった」などと説明があった[10]。エラリー・クイーンは「この映画を見るために6000マイルを飛んで来日した。映画は素晴らしい出来で野村演出に感心した」などと話した[10]。クイーンは会見の後、夕方6時からセントラル劇場での特別試写会の挨拶に向かった[7][10]

早川書房の「エラリイ・クイーン・フェア」と組んだ宣伝が主であったが、この方面でも盛り上がりはあまりなかった[2]。意図的に試写会も少なくしており、宣伝がどの程度効くか、全く見当がつかない状況であった[2]

興行

出足が悪く松竹営業部は配収は3億円台と予想したが、二週目も初週の98%とほとんどは配収が落ちず[2]。映画興行では珍しいケースだったが[9]口コミで評判を呼んだと見られヒットした[2][9]。『映画年鑑 1981年版』には「ロードショウでは好調な成績をおさめ、一般でも順調に稼働した」と書かれている[9]。全国キャンペーンで特別宣伝を実施した地区はヒットしたが、地方ではロケ地に近い広島市ではヒットしたものの[2]、その他の地方では伸び悩んだ[2][9]。本作の後番組だった『夜叉ヶ池』の成績が悪く[2]、週が進むと全国的に『夜叉ヶ池』と本作の二本立て興行を行う劇場が増えた[2]。結果的には意外な健闘を見せ、八週間上映が続いた[2]。野村は「配収は4億8000万ぐらいいったのではないか」と話している[2]奥山融松竹副社長から野村に「宣伝というか、会社の失敗で儲けられる作品を釣り損なって失敗し申し訳ない」と謝罪を受けた[2]。松竹は「初めの興行は弱い割りに底が強い作品」と評価し、松竹から「この手のものをもっと作って下さい」と要請を受けたという[2]

作品の評価

興行成績

1979年の松竹の自社製作は12本で[11]寅さんの2本は別格として[11]、それ以外の自社製作作品の中では『俺たちの交響楽』『日蓮』『闇の狩人』『夜叉ヶ池』などと共に健闘した[11]

批評家評

  • 野村監督は著書で「作品の新聞批評は悪く、褒める人は少数(周りでも)である。しかし私は逆に、それほど悪くない、と思い始めた。むしろ時間がなく、シナリオの段階で計算の不足分が弱さになって出た作品である」「エラリイ・クイーンをシャレっ気で打ったタッチの軽さが若い人に受けたようで、四:六で女と男の比が出た」などと解説している[2]
  • 小林淳は「豪華な配役を採った松竹の大作映画という側面への意識過多であろうか、メロドラマ要素が表に出過ぎてしまった感があるが、事件の謎解きを綴っていくクライマックスの展開はなかなかスリリングであり、鑑賞者を惹きつけてやまない。各俳優も松竹を背負って立つ野村の気概に応えるようと力演を披露した。とりわけ栗原小巻と佐分利信が存在感を見せつける。つまるところは愛憎が引き起こした殺人事件で、男女の深遠かつ不条理な愛と復讐の物語でもある。翻訳ものだからか、その辺りの説得力が弱く、リアリズムにも欠き、どこか冷めている。当時、人気絶頂だった松坂慶子のヌード披露が大きな話題となった。胸を腕で隠して正面を見つめる松坂が作品のイメージ戦略の一端を務めた」などと評した[2]
  • 寺脇研は「原作ものを、大作仕立てで映画化し、高名な俳優たちを綺羅星のように並び立てて、一見壮麗な作品めかすけれど、その実、真の迫力に乏しい、という昨今の日本映画が陥りがちな落し穴に、野村芳太郎監督と脚本の新藤兼人のコンビも、どうやらはまってしまったようだ」などと評した[2]

受賞歴

脚注

参考文献

  • 野村芳太郎・小林淳ワイズ出版編集部・野村芳樹監修『映画の匠 野村芳太郎』ワイズ出版、2020年。ISBN 9784898303344 

外部リンク