鈴谷 (通報艦)
鈴谷(すずや)は、日本海軍の通報艦[2]。艦名は樺太(現在のサハリン)の大泊(現コルサコフ)に河口のある鈴谷川からとられる[2]。
ノヴィーク | |
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完成時[1] | |
基本情報 | |
建造所 | ドイツ・シーシャウ造船所[2] |
艦種 | 防護巡洋艦[3] |
艦歴 | |
起工 | 1898年[3] |
進水 | 1900年8月15日[4] |
竣工 | 1901年[3] |
最期 | 1904年擱座放棄 |
その後 | 日本海軍が捕獲 |
要目([3]) | |
排水量 | 3,080英トン |
水線長 | 360 ft 5 in (109.86 m) |
幅 | 40 ft (12.19 m) |
吃水 | 16 ft 5 in (5.00 m) |
ボイラー | シュルツ・ソーニクロフト缶 12基 |
主機 | 直立3段膨張レシプロ |
推進 | 3軸 |
出力 | 計画:17,000ihp 公試:19,000ihp |
速力 | 計画:25ノット 公試:25.6ノット |
燃料 | 石炭:500英トン(満載) |
乗員 | 337名 |
兵装 | 45口径12cm砲 6門 3ポンド砲 6門 15インチ水上魚雷発射管 5門 |
その他 | 船材:鋼[2] |
概要
元はロシア帝国の二等防護巡洋艦「ノヴィーク(Новик)」[注釈 1](日本語表記にはノーウィック[1]、ノーウヰツク[5]などがある)。速力25ノットは当時の巡洋艦より数ノット優勢であり、高速の偵察巡洋艦として世界的に有名だった[6]。
日露戦争の黄海海戦に参加し、単独で逃走したが樺太の大泊付近で「千歳」「対馬」に発見・攻撃され擱座処分とされた(コルサコフ海戦)。その後日本軍が引き上げて横須賀海軍工廠で整備、1906年(明治39年)8月20日「鈴谷」として日本海軍の艦籍入りをした。ただし被害が大きかったために完全復旧は諦め、3軸だったものを1軸推進とし、ボイラーの数も減少、そのため速力は19ノットに低下していた。
艦型
ノヴィーク
3本煙突、1本マスト[4]の防護巡洋艦[3]。当時は超高速巡洋艦や軽巡洋艦の先駆けで、駆逐艦襲撃や強力偵察に威力があった[1]。艦首にはラムを持つ[3]。
鈴谷
鈴谷 | |
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1908年(明治41年)11月7日、呉軍港での「鈴谷」[7] | |
基本情報 | |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 通報艦[8] 1912年8月28日:二等海防艦[9] |
母港 | 旅順[10] |
艦歴 | |
就役 | 1906年8月20日、日本海軍籍に編入[2] |
除籍 | 1913年4月1日[2] |
その後 | 売却[11] |
要目([12]) | |
排水量 | 3,000英トン[2] |
長さ | 348 ft (106.07 m) |
幅 | 39 ft 4 in (11.99 m) |
吃水 | 19 ft (5.79 m) |
ボイラー | ソーニクロフト式缶[10] 4基(1912年時)[13] |
主機 | 4気筒3段膨張レシプロ 1基 |
推進 | 1軸 |
速力 | 19ノット[2] |
燃料 | 石炭 |
乗員 | 定員:312名(1906年9月3日制定)[14] |
兵装 | 1911年時 40口径安式4.7インチ(12cm)砲 4門[15] 40口径安式3インチ(7.6cm)砲 2門[15] 15インチ[16](45cm)露式水上ヒ形(旋回[17])発射管 4門[18] |
装甲 | 2インチ(51mm[6])クルップ・ニッケル甲鈑 |
ノヴィークより速力が落ちたために日本海軍では通報艦に類別、警備用の大型砲艦的な使用を前提とした[19]。ボイラー数減少により1番煙突を撤去[4]、1本マスト、2本煙突の特徴的な外観となった[7]。
機関
上記の通り、推進を1軸(中央のみ)としボイラー数を減少、速力は19ノットに落ちた[7][4]。明治45年(大正元年)の公文備考によるとボイラー数は4基[13]。同年に1基(第9号缶)が故障したが、残りの3基で16.5ノットが可能で[20]、役務変更まで修理は行われないことになった[21]。
兵装
出典により様々なデータがある。
- 『海軍艦艇史2』(1980):12cm砲6門、水上発射管 5門[7]
- 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(1993):10.2cm砲 2門、3インチ砲 4門[4]
- 『日本海軍全艦艇史』(1994):45口径12cm単装砲 6門、4.7cm単装砲 8門、45cm水上魚雷発射管 5門[12]
- 『日本海軍史』第7巻(1995):12cm単装砲 6門、4.7cm単装砲 8門、魚雷発射管 5門[22]
変遷
1909年(明治42年)2月10日、ビルジキール新設の認許[23]。前年の大演習参加時に横風時などに傾斜最大40度以上、平均でも30度超になり、探照灯の使用が困難になる場合があった[24]バラスト搭載の影響と思われ[24]、排水量約2,600英トンの時にGMが3 ft 8 in (1,120 mm)と著しく高かったため、ビルジキール装備が判断された[23]。
1911年(明治44年)に四三式一号送信機1組、同受信機1組を新たに装備、そのために無線電信室の位置を変更し、また後部兵員室の水嚢棚11人分を移動して無線用の3kW交流発電機を設置した[25]。また既存のマストの上に長さ17ft(5.18m)の無線マストを追加し、上端から4ft(1.22m)下の位置に長さ14ft(4.27)の桁を設けて無線桁とした[26]。
艦歴
ノヴィーク
1898年(明治31年)シーシャウ社で起工[3][注釈 2]、1900年(明治33年)8月15日進水[4]、1901年(明治34年)に竣工した[3][注釈 2]。
日露戦争では旅順艦隊に所属し、その高速性を生かして神出鬼没で日本海軍艦隊を悩ませた[4]。1904年(明治37年)8月10日の黄海海戦に参加し小破、膠州湾で石炭を補給し、単艦でウラジオストクに逃れるために本州東方を迂回し宗谷海峡を通過[27]、8月20日、樺太・大泊沖で「千島」「対馬」の攻撃を受け損傷[4]、脱出をあきらめ夜間に擱座処分にされた。
鈴谷
救難作業
1905年(明治38年)8月、日本海軍が引き上げ作業を開始[27]。「栗橋丸」などが作業を行った[28]。冬期は作業を中止し、翌1906年(明治39年)6月10日に作業を再開、7月13日に浮揚した[27]。工作船「関東丸」が曳航して7月31日大泊発、8月5日に函館港に入港し応急修理の為に入渠した[28]
同年8月20日艦籍に編入[2]、「
明治41年大演習観艦式
同年10月31日、二重底で漏水し航行に危険があったため神戸に寄港し停泊[31]、11月1日神戸を出港し呉軍港に向かった[32]。この航海の前後に種々の故障があった[33]。
11月17日、神戸沖で行われた大演習観艦式に参列[34]、第3列13番目に停泊した[35]。
1910年
1909年(明治42年)11月22日佐世保港を出港、以降旅順方面の警備活動を行った[36]。
1910年
1910年(明治43年)5月6日佐世保に帰港[36]、5月20日佐世保を出港した[36]。
1911年
1911年(明治44年)2月24日佐世保に帰港した[36]。3月12日仁川を出港[36]、5月4日佐世保に帰港した[36]。5月23日佐世保を出港した[36]。
1912年
1912年(明治45年)5月15日佐世保に帰港、5月23日出港した[36]。
海防艦
1912年(大正元年)8月28日二等海防艦に類別が変更された[4][9]。10月に「津軽]」と共に威海衛と膠州湾へ航海し、訓練、視察、水路研究を行う計画(10月13日旅順発、18日旅順着の予定[37])があったが[38]、都合により中止となった[39]。10月29日に鎮南浦に一時寄港、31日出港した[36]。12月2日大同江に入港、4日出港した[36]。
除籍
1913年(大正2年)2月6日、『「鈴谷」は来年度(4月1日以降)に廃艦予定のために佐世保軍港へ帰投するよう』に旅順鎮守府へ令達され[40]、2月14日海州邑に入港、20日仁川を出港した[36]。「鈴谷」は3月25日旅順発、31日佐世保着の予定とされ[41]、3月29日所安島に到着した[36]。
4月1日除籍[2]、艦艇類別等級表から削除[42]。6月12日売却の訓令、「大阪市青山新三郎に75,000円で売却」の報告が11月1日に提出された[11]。
艦長
- ノヴィーク
日露戦争開戦時にはニコライ・フォン・エッセンが艦長を務めていた。なお、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では黄海海戦時の艦長をエッセンとしているが、すでに戦艦セヴァストポリの艦長となっていたためこれは誤りである。
- 鈴谷
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 茶山豊也 大佐:1906年10月20日 - 1907年4月18日
- (兼)吉見乾海 大佐:1907年4月18日 - 1907年7月1日
- (兼)仙頭武央 大佐:1907年7月1日 - 1908年2月26日
- 小栗孝三郎 大佐:1908年2月26日 - 1908年5月15日
- (兼)小栗孝三郎 大佐:1908年5月15日 - 1908年7月11日
- (兼)笠間直 大佐:1908年7月11日 - 1908年8月15日
- (臨時)釜屋六郎:1908年大演習時[43]
- 志津田定一郎 中佐:1909年5月25日 -
- 志津田定一郎 中佐:1909年11月1日 - 1910年12月1日
- 川原袈裟太郎 中佐:1910年12月1日 - 1911年2月7日
- 関重孝 中佐:1911年2月7日 - 1911年12月1日
- 佐藤皐蔵 大佐:1911年12月1日 - 1913年4月1日
同型艦
ノヴィーク
脚注
注釈
出典
参考文献
- Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships, 1860-1905. (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター [1]
- 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/造修 6止(3)』。Ref.C06091741300。
- 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/造修 6止(6)』。Ref.C06091741600。
- 『明治41年 公文備考 艦船2 巻9/試験検査(3)』。Ref.C06091993400。
- 『明治41年 公文備考 艦船27止 巻34/雑(6)』。Ref.C06092033900。
- 『明治41年 公文備考 演習2 大演習観艦式2 巻40/行幸御次第書並勅語(2)』。Ref.C06092043900。
- 『明治42年 公文備考 艦船2 巻17/修理(2)』。Ref.C06092161200。
- 『明治44年 公文備考 演習2 巻68/艦砲検定射撃成績表(5)』。Ref.C07090193500。
- 『明治44年 公文備考 艦船6 巻22/改造修理2止(3)』。Ref.C07090134000。
- 『明治44年 公文備考 艦船6 巻22/改造修理2止(6)』。Ref.C07090134300。
- 『明治44年 公文備考 艦船7 巻23/試験検査(4)』。Ref.C07090135200。
- 『明治44年 公文備考 演習6 巻72/魚形水雷戦闘発射(2)』。Ref.C07090197300。
- 『明治44年 公文備考 演習6 巻72/魚形水雷戦闘発射(4)』。Ref.C07090197500。
- 『明治44年 公文備考 演習9 巻75/魚形水雷発射集合成績表(2)』。Ref.C07090199800。
- 『明治45年 大正元年 公文備考 艦船5 巻31/修理改造 大正元年分(4)』。Ref.C08020043700。
- 『明治45年 大正元年 公文備考 艦船20 巻46/艦船行動回航及派遣(4)』。Ref.C08020065700。
- 『大正2年 公文備考 艦船3 巻22/亡失、売却及撤去、処分(3)』。Ref.C08020260400。
- 『大正2年 公文備考 艦船3 巻22/行動回航及派遣、航路予定(5)』。Ref.C08020261000。
- 「除籍艦艇/軍艦(3)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、Ref.C14010005700。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍省『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。doi:10.11501/1886716。全国書誌番号:20454768。
- 福井静夫『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』KKベストセラーズ、1980年6月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 阿部安雄、協力:福井静夫「主要艦艇要目表」『写真 日本海軍全艦艇史 資料篇』、ベストセラーズ、1994年10月1日、ISBN 4-584-17054-1。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 『官報』
関連項目
- 鈴谷 (重巡洋艦) - 2代目「鈴谷」